後半を書きます。
長篠の戦いの後、勝頼は非常にまずいことをしました。
このあたりが大河ドラマ「真田丸」ともかかわってくる場面です。
彼は当時、小田原の北条家と同盟していました。
北条家は北条早雲以来、関東に大基盤を持つ大名でした。
その石高は250万石は下らないと言われています。
250万石は兵隊の動員数で言えば62,500~75,000。
武田信玄の往時でも150万石程度でしたので、約1.7倍の規模でした。
ただし北条家はもう全盛期を越えていました。
北条家は信玄に対して積極的に戦争を仕掛けるということはありませんでした。
さて、上杉謙信の逝去後、上杉家には後継者争いが勃発しました。
景勝と景虎の争いです。
景勝は謙信の姉の子、景虎は北条氏康の7男と言われています。
北条家は当然、景虎を応援します。
同時に勝頼にも北条との同盟に従って出陣を依頼します。
勝頼も出陣し、景勝と景虎の和睦を作り上げました。
しかし、その時に徳川家康が武田領に侵攻したため、引き揚げざるをえなくなりました。
そして、和睦は破綻し、後継者争いは景勝に軍配があがりました。
北条家はこれにより武田家との同盟を破棄しました。
勝頼は250万石の北条家を捨て、50万石程度まで落ちてしまった上杉家を選択してしまいます。
これには一つの逸話も存在します。
信玄は病床の折、勝頼に以下の遺言をしたと言われています。
「上杉謙信は頼りになる男なので、彼を頼れ」と。
そういう意味では、ここでは勝頼は信玄の遺言を守ったと言えるのでしょう。
長篠の戦いから7年、織田信長が動き始めます。
長篠の戦い以降、勝頼は必死に挽回をはかりますが、すべて逆効果になっていきました。
信長の調略で長野県木曽の木曽義昌が裏切ったことをきっかけに武田家は滅亡します。
木曽の裏切りに激怒した勝頼が木曽に向うのを見計らって、信長は大動員を行います。
総勢10万を超える大軍が武田領に殺到しました。
勝頼は最後は家臣の裏切りに遭い、天目山という場所で50名の近臣・妻等と自害します。
息子の信勝も自害しました。
武田家の最後は総崩れで実にあっけなく終わってしまいました。
平安期以降の名門武田家は600年の歴史に幕を閉じます。
信玄からの家臣たちはいつも勝頼を諌めていたと言われています。
家督相続において、勝頼の近習たちが頭角を現し、家臣団の中にも軋轢ができました。
「人は石垣」
信玄の言葉は、息子勝頼によって粉々になってしまいました。
勝頼の母の実家は諏訪家といい、長野県の諏訪大社の家です。
諏訪大社も信長の侵攻によって焼きつくされました。
武田信玄が崇敬していた武田家の菩提寺、恵林寺も燃やされます。
快川和尚の逸話はあまりにも有名です。
焼き討ちにすると宣言した織田軍は僧侶らを山門に押し込み火をかけます。
快川和尚はこの時有名な言葉を吐きました。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」
どんなことも心の持ち方次第で変わるという意味のようです。
地域の大名がほろぶ時、地域の文化は一つの終焉を迎えるのでしょう。
その軌跡を一度、山梨県にまで見に行きたいと思います。