大隅半島。
奈良朝から江戸期までは大隅国を形成していた地域です。
その主邑であり、今なお中心地である鹿屋市。
大隅半島と鹿屋の歴史と観光について考えます。
江戸期の年貢は8公2民
戦国時代、薩摩の島津氏が大隅半島を制圧します。
それから江戸期の最後まで、島津氏の領地となります。
戦国斉末期まで独立性を維持し、大規模な戦闘を続けた島津氏。
九州制覇もあと一歩で豊臣秀吉の九州征伐を受けてしまいます。
戦国時代一番最後まで戦闘態勢を残した家と言えるでしょう。
また、江戸期も徳川からにらまれたため、宝暦の治水事業など莫大な費用が掛かります。
このような事情の中に大隅半島も存在しました。
薩摩藩の年貢は8公2民だったと言われています。
現代に換算すると、初任給18万のうち、手取りが3.6万円となります・・・。
・・・。
江戸期の大隅半島はとても大変だったと想像しました。
鹿屋航空基地
明治が終わり、戦争は空中戦の時代に入ります。
そして鹿屋には航空基地ができます。
ここで日本史上の残る様々な出来事が行われました。
航空基地は同時に多くの軍人を地域に駐在させます。
これが鹿屋の大きな消費の軸になったでしょう。
真珠湾攻撃と特攻隊
鹿屋航空基地では太平洋戦争の開戦に向けて、水面下で準備が始まっていました。
それは真珠湾攻撃の準備です。
鹿児島を中心とした地域での訓練が行われました。
さらに、太平洋戦争末期。
今度は、特攻隊の訓練が行われます。
日本は一体、日本人を失ってまで何を守ろうとしたのでしょうか。
多くの若者が帰らぬ飛行に旅立っていきました。
今、鹿屋といえば、この鹿屋航空基地が観光スポットとなっています。
観光とは地域の光を観るという意味があります。
鹿屋では明治からの歴史でずっと軍部・自衛隊の歴史があります。
その中には日本の歴史と同じで輝かしい栄光もあれば悲劇もあります。
それを学ぶことができる鹿屋。
鹿屋の観光にはぜひ、鹿屋航空基地の資料館を尋ねてみてください。
大隅半島から電車が消えた昭和62年
戦争が終わり、鹿屋には軍隊がいなくなります。
その後、自衛隊発足と共に、航空基地もやがて復活します。
しかし、国鉄は民間に変わることになり、不採算路線の廃線へと向かいます。
その結果、昭和62年には鉄道が廃止されました。
鉄道を廃止すると多くの地域は衰退が始まります。
しかし、鹿屋は違う道を進んだんですね。
それが鹿屋の農業振興です。
大隅半島は日本屈指の食糧庫
鉄道を失った大隅半島でしたが、農業の振興に非常に努力します。
その結果、現在では日本屈指の食糧庫となっています。
大隅半島を車で走るとわかりますが、農地が非常に多いですね。
大隅半島は一つ、農業で地域振興するという形に成功したと言えるでしょう。
鹿屋はいずれ農業資本が中心市街地に入ってくるでしょう。
そこが新たな都市政策にも影響を与えるのかなと思います。
観光でも鹿屋の市街地では地場産食材を使った飲食店が充実していくように思いました。
大隅半島と鹿屋の歴史と観光について考えてみました。