真田丸。毎回欠かさずに見ています。多くは録画ですが・・
さて、真田信繁の最後までの相手は徳川家康でした。
今回は徳川家康の話を少し書かせていただきます。
戦国三英傑と呼ばれる3人がいます。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康です。
全員が愛知県生まれになります。
今日はその中で徳川家康の話をしたいと思います。
徳川家康の家系は元は実は遊行僧のだったと言われています。
それから7代後が家康になります。家康の祖父の清康という人が人物であり、西三河の大半を手にします。
しかし、25歳で亡くなります。発狂した家臣が背後から切りつけてきて亡くなったそうです。
父の広康という人も同じように若くして家臣から殺されています。
祖父も父も殺され、そして、小さいころに人質に行く際中に叔父にも騙されています。
彼は自分の器量以上に環境の中での苦労による処世を学んでいきます。
徳川家康は処世訓のような名言を多く残しています。
私の好きな家康の名言も何点かありますが、最も好きな言葉を紹介します。
「無駄なことでも聞いてあげないと、有意義なことを教えてくれる人まで話をしにこなくなる」
「人間は役に立たない者などいない。誰でもいつかきっと役に立つときがあるからその時まで見放してはダメだ。」
このような言葉を常々、周囲に言い聞かせていたそうです。
今のご時世では、組織の中で解雇という言葉が使われる日が多いですね。
しかし、家康は自分から家来を手打ちにしたり騙したりしたことはあまりなかったと言われています。
その為、家来側も家康に謀反を起こしたり裏切ったりすることがあまりなかったようですね。
まあ一時期全国的に流行した一向一揆にはかなり手こずったそうですし、家康の家来の大半が一向一揆について戦っていたそうです。
彼はその後、一向一揆との和解において、全部元に戻すと言ってお寺を野原に戻したと言われていますが、真相は・・。
また家来でも一人だけ秀吉の元に裏切った人がいます。石川数正という人物です。
数正は家康の小さいころからの近習でもあり、筆頭家老も務めました。
数正はもっぱら岡崎城を守っていたため、西側の豊臣秀吉との外交を担当します。
数正は豊臣秀吉の大気者と呼ばれる度胸の良さに触れて三河者の料簡の狭さとを対比してしまい、秀吉の方へ走りました。
真田丸を見ていると、家康という人は変な人物のように描かれています。
しかし、実際は家康は同時代の誰よりも総合的に優れていた人物だったのではないかと思います。
後に関ケ原の戦いの時に家康の元に馳せ参じた人間が多かったです。結局は世間もそういう印象を持っていたのでしょう。
人にはそれぞれ主題があるのでしょう。
家康は乱世を終わらせるという主題を作り上げました。
それに対して、真田信繁は家康と戦うという主題があったのではないでしょうか。
信繁は乱世の終わりとなった最後の戦い「大坂夏の陣」を舞台に大活躍します。
相手は家康でした。家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗して以降、誰にも負けていませんでした。
その家康の本陣を信繁は3度にわたって大混乱させたと言われています。
乱世に最後に男性的な美意識の集大成を演出した信繁はこう言われました。
「真田日本一のつわもの」。
今後の真田丸の展開にとても期待しています。