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東京・江戸の町の変遷 武士の町から官庁街へ

地域活性局 視察

先日、日帰りで東京に行きました。
東京事務所を閉鎖して以来2年ほどご無沙汰していた東京。
今回は仕事ではありません。
リラックスしていたのかいつもと違う視点で町を考えることができました。

東京の‘江戸から東京’への変遷について考えました。

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今回、初めて日暮里界隈を歩きました。

 

江戸の町の成り立ち

町の成り立ちは1590年に徳川家康が江戸に入府したことに始まるでしょう。
江戸の町は豊臣秀吉の全国統一後に家康が関東の大部分を拝領します。

約250万石の領地の中心地となった江戸。
米1石が150kg。250万石は375000トン・・・。

戦後は米1俵で京都祇園で1週間遊べたといわれています。
そこから計算すると約20万円の価値がかつてあったでしょう。

1俵は30㎏です。30㎏が20万円と換算すると、25兆円の収入となります。
むろん現代に置き換えるとだいぶ目減りします。

しかし、当時は米本位経済でしたので、妥当かなと。
草深い村が突然25兆円の収入を持つ。

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白金台にある奈良県のアンテナショップ

 

建設ラッシュだった江戸初期

江戸は家康入府以来、建設ラッシュだったといわれています。
もっとも関東は北条家が安い租税を課していたので家康は非常に苦労したそうです。

江戸の本格的な発展は1600年、関ケ原の戦いの後です。
天下人が豊臣から徳川へ、大阪から江戸へ政権が動きます。
家康は城下の整備を渦が巻くように作ったといわれています。
これは碁盤の目の作り方の大坂の反対ですね。

今も東京の道は皇居を中心にぐるぐる回っています。

参勤交代の経済効果

さて、諸大名が江戸に屋敷を持ち参勤交代が始まります。

江戸時代は俗に300諸侯(大名)といわれていました。
当時、日本の石高は2000万石で、300人/万石の武士を雇用していました。
徳川家の所領は400~800万石、1600万石~1200万石が諸大名の所領です。

2,000万石で武士の数は60万人ということになります。

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赤門は加賀前田藩の表門だった建造物です。

 

加賀前田家は常時約7,000人を江戸に常駐させていました。
104万石の前田家が約7,000人。70人/万石ぐらいですね。
70名/万石が江戸に参勤交代したとします。

すると11.2~8.4万人は常駐することになります。
そして徳川家の直臣はつまり8万人と俗に称します。
単純に足すと15万人~20万人がいたことになります。
江戸は300諸侯と15~20万人の武士がいた計算になります。

300人の在地領主(政治家)と20万人の特権階級武士が住む町です。
徳川8万騎は家族と暮らしているので、4人家族と仮に考えても32万人です。

江戸は江戸中期には100万都市になったといわれています。
全国から12万人の出張者が常駐します。

参勤交代では家来は領地から江戸に出てきて交代します。
交代を考えると臨時には最大で12万の倍、24万人もいたかもしれません。
これだけの武士が集まり需要を作ります。そして消費を江戸の町が担います。

江戸は職人が宵越しのお金を持たないといわれていました。
その日の稼ぎをその日に使っても明日は仕事があるという意味です。
豊かだったんですね。大阪の商人世界とは印象が違います。

また、江戸の町は大火の多い町で、大火の度に材木が売れます。
川村瑞賢など、江戸期の豪商はこれで身代を大きくした人も多いです。

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さて、江戸の町は将軍と300諸侯と武士の町です。
武士は今でいう行政とでもいえるのでしょうか。

体面を非常に重要視します。
それも人口100万人の半数は武士だといわれた町です。
江戸では人の対面、誇りを傷つけない努力をして町を繋いできたでしょう。

江戸の町が崩れたのは幕末です。
幕末になると黒船の来航以降、外国からの圧力が強くなっていきます。
そこで、江戸幕府は参勤交代を廃止しました。

その費用を国防に充てるように各大名に通達しました。
江戸の町は消費者である武士がいなくなりました。
そして極端に景気が悪くなったといわれています。

一方の大名たちも江戸屋敷を撤退したことで反抗精神が強くなりました。

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明治の元勲大久保利通遭難の地。紀尾井坂。

 

江戸から明治へ

明治維新を迎え、江戸は東京と改称します。

東の京(みやこ)。
京都から見て東の都という意味です。

実は、今も日本の首都は厳密には決まっていません。
日本国憲法にも記名されていないんですね。

さて、東京は明治維新後、中央集権体制の中心地となります。
江戸時代は大名は参勤交代しますが各支配地における徴税権を確保していました。
そういった権利を明治政府に一元化します。

そして、昭和の激動を経て、今に至ります。

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帰りがけにマリオカート?をしている外国人たちに出会いました。

 

現代社会において人口の半分が行政職員という地域はありません。
武士が厳密に行政職員という定義を取るのは難しいですが、
しかし東京(江戸)はそんな事情で成り立って今に至ります。
新幹線で東京駅や品川駅に降り立つと、見渡す限りスーツの人が多いですね。
東京という町には、なんというか緊張感がありますね。

東京では、お坊さんも檀家さんの家に通う際にはスーツで行くそうですね。
そして檀家さんの家で着替えるそうです。
武士が袴をはいて歩いていた町。
今は、スーツを着たビジネスマンの風景があります。
こんなところにもその余韻を私は感じます。

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