BSでNHKスペシャルが放送されていました。
番組名は「ふたりの贖罪 ~日本とアメリカ 憎しみを越えて~」
海軍中佐が戦後、キリスト教に入信し渡米して平和を訴えます。
太平洋戦争の記憶。奈良田原本出身の軍人が渡米して伝道した話を紹介します。
淵田美津雄氏のプロフィール
淵田美津雄氏。
1902年、奈良県北葛城郡磐城村(現在の葛城市)に生まれます。
現在の畝傍高校を卒業後、海軍兵学校に入学します。
戦前は軍に就職することが一番の出世で、この時代のいわゆるエリートコースです。
その後、海軍に入隊します。
彼の名前は美津雄と書きます。美しい津(みなと)の雄(おとこ)。
名前を付けられたご両親はやはり息子に海軍に入ってもらいたかったのでしょうか。
この当時、世界中の海軍は大艦巨砲主義を持っていました。
限りなく大きな艦船・砲撃で戦う主義です。
航空戦を立案した淵田美津雄氏
しかし、淵田は航空戦を考えます。
彼は航空戦による真珠湾攻撃を起案し採択されます。
そして真珠湾に出撃します。
彼は真珠湾作戦の立役者として脚光を浴び、その後も昇進を続けます。
しかし、それは彼の人生の華やかなキャリアとはなりませんでした。
軍人の終戦
1945年、8月15日。日本は終戦を迎えます。
エリート軍人にとって、戦後は厳しい世界でした。
恩給は1946年に止まります。
そして戦争指導者は徹底的にGHQから調査されます。
戦後の風潮として戦争で活躍した人への目が厳しかったそうです。
淵田は多くのアメリカ人を殺害したことが心に傷として残ります。
そんな時、一人のアメリカ人に出会います。
淵田美津雄氏が出会ったアメリカ人牧師
アメリカ軍元空軍軍曹ジェイコブデシェーザー氏。
彼は真珠湾攻撃後に、アメリカが反転攻勢のきっかけとなったドーリトル空襲に志願します。
真珠湾作戦に湧き上がる日本に突如空襲を行う作戦です。
当時、太平洋の制海権は日本にありました。
アメリカは空母を隠密のように走らせ飛行機を飛ばします。
1200km離れた場所から飛ばすため飛行機は往復できません。
ドーリトル部隊は、日本本土を爆撃し中国大陸に着陸する作戦でした。
デシェーザーは中国大陸に不時着します。
しかし、そこは日本軍の支配地でした。
彼は捕虜となり、拷問等を受けたといわれています。
日本人への憎しみが募るある日、同じ捕虜となっていた仲間が死にます。
彼の葬儀を検討していた際に、青田という日本軍の将校がそっと聖書を差し入れます。
その聖書を彼は読み漁ります。
そして日本人への憎しみは聖書の教えを知るにあたって伝道への道へと変わります。
彼は終戦後、アメリカに戻りシアトル大学で神学教育をうけます。
そして牧師となり、日本へ100万部以上のチラシを送ります。
チラシには「私は日本の捕虜でした」と書かれていました。
そして、1948年に来日します。
そこで淵田と出会います。
淵田は、デシェーザーとの出会いに感銘を受けました。
そしてキリスト教に入信します。
彼は戦争の苦しみから自分を解放してくれる何かを求めていたのでしょう。
それが宗教でした。
彼はデシェーザーと共に10年間にわたり北海道から沖縄まで伝道します。
そして、淵田は渡米を決意するのでした。
先の大戦は戦争への無知から起こったことであり、謝罪ではなく理解を進めていきたいと講演します。
アメリカ社会は戦勝国として日本を最大限に悪にすることで正当化された世論を持っていました。
淵田は何度も危険な目に遭いそうになったそうです。
それでもどんな小さな教会にでも足を運び、話をつづけたそうです。
淵田は孤独だったでしょう。
戦後でも、日本の戦争は間違っていなかったと考える人は多かったそうです。
海軍の仲間から批判されたり、元特攻隊が刀を持って押し入ることもあったそうです。
現代社会に生きる私には過去の時代の空気まで正確に把握することはできません。
しかし今、奈良県民として生活している身として淵田美津雄という人の存在は語りかけてくれます。
相互の理解を深めることで国際間の友好もできるのではないか。
それは、東アジアでの情勢にも同じことがいえると思います。
お互いの国が、お互いの国内で罵り合うのではなくて、交流する。
一人ひとりの日本人が一人ひとりの中国人・韓国人と交流する。
戦後、海を渡っていわば「国際交流」に打って出た淵田美津雄。
世界中が日常で交流できるようになった現代社会。
観光都市として本当に行わなければならないことがあると思います。
国際社会における課題の一端を担える観光であってほしいと常に思います。
社会における存在価値は責任と対価がバランスよく存在していることだと思います。
太平洋戦争の記憶。奈良出身の元軍人が渡米して伝道した話を書きました。