人類の発展は恩返しの連続があるから。
私の好きな言葉です。
そしてがんばっていれば誰かが助けてくれる。
これもまた私の好きな言葉です。
誰も助けてくれないのであれば、それはがんばりが足りないんだと思っています。
今回は、若者を暖かく見守ってくださっている人のお話です。
創業10周年企画。ならまちのかみさま野崎允亮さん。
2002年。
高校卒業後、服飾の専門学校に入学。
私の当時の私はファッションでまちづくり。
綿花から育て、まちで消費できる世界を目指していました。
化学繊維の全盛期。
専門学校をさらっと辞めました。
まちづくり(地域の活性化)を民間でできる形を模索しようと考え直します。
テーマは再設定しようと思いました。
半年、思うままに放浪し、その後1年勉強しました。
2004年4月。
奈良大学に入りました。
かねての計画通り、地域の活性化を目指す学生団体を立ち上げました。
地域貢献団体「地域研究会」。
8名でスタートし、5月に団体名を地域活性局に変更しました。
最初の1年は、他サークルと変わらないただの学生団体でした。
これではだめだとメンバーを募集しました。
再編成して臨んだ2年目。
2005年
2つの行動に移ります。
1 活動場所を決めること。
2 実際に行動に移すこと。
活動場所。実は1カ所ではありません。
その理由は、食をテーマに事業企画を考えたからです。
村おこしとまちおこしを流通で繋ごうと思いました。
それが観光価値になるのではないか。
当時奈良にうまいものなしという言葉がありました。
学生が挑戦する。
山間部の過疎地で野菜の美味しい地域を探し、観光地に流通させる。
そのためには山間地と観光地に活動地域が必要です。
そして2005年、忘れられない夏が始まります。
2005年夏
当時、ならまちには蛍の会という若手飲食店の会がありました。
8月24日、元興寺で夢まつりというイベントを行います。
その手伝いのお誘いを春鹿の今西清隆さんからいただきました。
ならまちの多くの方に知己を得るチャンスだと思い、参加することにしました。
8名の活性局メンバーと5人の助っ人合計13名。
5月から8月25日まで全員で約1,000時間のボランティアを行いました。
多くの人の知己をいただきました。
この時のボランティアの事務所が現在の奈良町情報館の建物でした。
迎えた2005年秋
当時、ならまちに最もお客さんが訪れていた秋。
奈良では奈良国立博物館の正倉院展が開催されます。
その期間に合わせ、ならまちで山間部の特産品や野菜の朝市を考えました。
夏祭りで知己をいただいた中院町の辻村さんに相談しました。
そして元興寺文化財研究所の南側の軒先を貸していただきました。
10月25日から11月8日まで、長い朝市のスタートでした。
近所の多くの方が買いにやってきてくださいました。
その際に、中新屋町の野崎さんも来てくださいました。
「うちの事務所空いているから使っていいよ」。
2006年6月
そして大学3年生6月に(現奈良町情報館で)スタートした月1回の朝市。
市は昼になると野菜が売れなくなり、代わりに特産品が売れます。
そして一番多かったのが道のお尋ねでした。
この当時、ならまちは急激に観光客が増え始めていました。
観光客は立ち並ぶ家々のチャイムを鳴らして道を尋ねていました。
この3年生の1年間は野菜を売りながら将来のヒントを集めた1年でした。
2006年大学3年生の11月
大学の仲間たちは就職活動を始めます。
それを横目に私は起業準備を開始します。
平成19年3月2日、法務局に登記の申請に行きました。
株式会社地域活性局。
窓口の方はなんと朝市のお客さんでした。
2007年3月12日起業
3月14日、法務局の申請が通っていることがわかりました。
月1度の朝市を超えた会社経営が細々と始まりました。
毎月1度朝市で貸していただいている事務所。
ここをずっと貸していただけないか。
しかし、それを野崎さんに聞きに行くことが不安でした。
1週間ほど悶々としました。
私はここで観光案内所をしたいと考えていました。
道を案内することでまちに貢献できる。
そう確信していました。
しかし、信用もない学生に貸してくれるのか・・・。
意を決して野崎さんを訪ねます。
「そーですか、わかりました。いいですよ、使ってください」。
この言葉は一生忘れないと思います。
これが5月の話でした。
実は野崎さんは、私の実家の和菓子屋を見に行ってくださっていたそうです。
それで、貸しても大丈夫と思ってくださっていたそうです。
案内所設立に向けて準備を開始します。
会社設立時にお願いしていた顧問と相談役が圧倒的な人脈を提供してくださいました。
顧問は近鉄グループに掛け合って社長や副社長にご挨拶に連れて行って下さいました。
相談役にも一つお願いをしました。
奈良で店を始めるので看板は東大寺の方の揮毫をいただきたい。と。
相談役は東大寺に電話してくださり、次の日すぐに東大寺へ連れて行ってくださいました。
当時、入退院を繰り返されていた長老の筒井寛秀師。
揮毫の看板は縦書きです。
縦書きは座って書くことができずに体力を使います。
しかし事業の趣旨を説明すると、私も参加しましょうと言ってくださいました。
後に、この揮毫は筒井寛秀師の最後の揮毫だったと奥様に教えていただきました。
2週間後、揮毫をいただき相談役の指南で私が自分で看板を彫りました。
これが8月でした。
人生最後の夏休みの宿題のような気持ちでした。
2007年10月5日
奈良町情報館。
奈良町情報館は10月5日にオープンしました。
10月5日。
開館するには中途半端な日です。
しかし、これには思い入れがありました。
顧問の大辻康夫氏の誕生日が10月5日です。
顧問の82歳の誕生日。
顧問は高齢ですが、ずっと顧問を忘れないようにこの日にしました。
開館月は9,000名も来場がありました。
ここから社会人学生が名実ともに始まりました。
ならまちの商店の方々に広告を出していただき紹介する。
奈良県産の特産品を販売する。
残りの時間に焦りながら、しかし少しずつ事業化へ向かいました。
2008年3月
そして卒業を迎えます。
実は、野崎さんからは電気代だけでいいよとありがたいお言葉をいただいていました。
しかし、卒業後もそれではいけません。
そこで、卒業後は売上の10%を家賃として払う形でお願いしますとお伝えしました。
毎月、支払いに行くたびに野崎さんから聞かれていました。
「(経営は)大丈夫ですか?」と。
卒業後は学生時代の仲間と、一人のアルバイト生と3人でやっていました。
仲間には大卒の初任給程度渡していましたが、自分の給与は手取りで約7万円でした。
野崎さんはとても心配してくださっていました。
これは後に知りましたが、私が当初2年間お支払いしていた家賃はすべて通帳で貯金してくださっていたそうです。
私が支払えなくなれば、お金を返そうと思っていてくださったそうです。
食事を出してくださったお店のみなさま
起業当初はまったく食べていくことができていませんでした。
しかし、そんな時、町のお店の方が賄いで助けてくださいました。
朝は8時につる由さんに行けば朝ごはんを出してくださいます。
昼は3時過ぎにひよりさんにいけば昼ごはんをいただけます。
夜は蔵さんで賄いをいただきます。
そんな生活を繰り返していました。
そして運命の2年後が近づいてきます。
卒業1年目の冬にまちの地図を制作することにしました。
2009年3月
地図ができあがりました。
できあがった地図を見て、奈良交通の中村社長から褒めていただきました。
「良い地図作ったね」。
これも忘れられない言葉です。
それから今に至るまで、奈良交通さんは会社の広告スポンサーです。
もう一つの出会い
またその地図は運命を一つ持ってきてくれました。
奈良には信用金庫が3つあります。
そのうち田原本に金融機関「奈良中央信用金庫」があります。
奈良市内には南奈良支店がありました。
そこの当時支店長だった中田照夫さんが地図の新聞記事を見て訪ねてきてくださいました。
ここからはじめての金融機関との取引が始まりました。
中田さんは非常に丁寧に優しく金融について教えてくださいました。
ちょうどこの頃、資金繰りに行き詰っていました。
運転資金を借りることになった際、建物の契約書が欲しいと言われました。
しかし、契約書は存在しません。
そこで野崎さんに相談に行きました。
野崎さんは、「好きに作っていいですよ。」
と言ってくださいました。
家賃の額についても「好きに数字を書いていいですよ」と。
会社はその後、国の事業なども受託でき軌道に乗り始めました。
2012年2月13日
そして迎えた5周年記念式典。
野崎さんには乾杯の音頭を取っていただきました。
この日、野崎さんからまたありがたい言葉をいただきました。
「ならまちにずっといてくださいね」。
奈良中央信用金庫の中田さんも一言くださいました。
奈良町情報館はならまちの入口にあります。
一等地と言っても過言ではないでしょう。
そこを快く貸してくださった野崎さん。
地域活性局という会社が存在するのは野崎さんのお陰です。
この場所がなかったら私は今の100分の1も仕事ができていなかったと思います。
野崎さんにとても感謝しています。
私からすると野崎さんはかみさまです。
これから恩返しをしていきたいです。
「恩返しの連続が社会を発展させる」。
創業10周年企画。ならまちのかみさま野崎充亮さん。
思い返すと本当に多くの方から恩をいただいています。
日々感謝です。
この場を借りてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。 地域活性局 藤丸正明