大隅半島に仕事で出かけました。
私は基本、視察に行く際は事前に歴史と地理をなるべく調べてから訪ねます。
大隅半島の古代史を調べていると薩摩隼人の話に辿り着きました。
日本が律令国家という体制を作る前からその地にいた薩摩隼人。
今回は国と地方という観点から話を書きたいと思います。
奈良の宮廷人が名付けた‘薩摩隼人’
平城京に都を作り、日本が律令国家としての道を歩んだ奈良時代。
平城京の中央政府は全国に施策を広げていきます。
地方の行政にも目が行き届くようになってきたのでしょう。
大きな国を分割していきます。
そして、地方にはまだ中央に従わない勢力があります。
東北の蝦夷と南九州の薩摩隼人ですね。
俊敏な南九州人を奈良の都では隼人と名付けます。
名付けたのは朝廷側だったということですね。
日本の大動脈の交易の事情で揺れる日向国
奈良の都である問題が持ち上がります。
奈良の都は中国の隋・唐との交易により情報を集め、国家運営の参考にします。
隋・唐との交易は朝鮮半島の西側を通るいわゆる北航路を使っていました。
しかし、朝鮮半島は日本の敵対勢力による統一が完成します。
そこで日本はいわゆる南航路を使うことを決めました。
この南航路とは九州から奄美等を島伝いに南下し、中国に向かう航路です。
中国への道が南側に変わったことにより、南九州の重要性があがります。
現在、鹿児島県・宮崎県になっている地域は奈良の都ができる前までは一つの国でした。
それが日向国です。
日向国の分割と移住政策
中央政府は日向国を統治しやすいように分割します。
まずは薩摩を分国します。
これに南九州は非常に動揺したと言われています。
さらに大隅国を分国します。
ここでこの地に昔から盤踞する‘薩摩隼人’が反乱を起こします。
反乱はやがて鎮圧されます。
南九州という地域から見ると、分国の動きはどうでしょうか。
一つの国を分断されて、穏便ではなかったでしょう。
また、政府は豊前国から大隅国への移住政策を進めます。
実に大隅国の全人口の1割が移住したという説もあります。
ちなみに薩摩国を作った理由があります。
それは坊津という港を交易の中心として使う為だったといわれています。
坊津の意味
坊津は鹿児島県の薩摩半島側の西南にあります。
坊津という名前には意味があります。
当時、世界の国家運営の最先端は仏教により国家を統治する国家鎮護でした。
そしてその仏教はお坊さんが研究したことを政府が参考にします。
そのお坊さんがよく利用する港で坊津なんですね。
実際にここから多くの留学生が中国を目指します。
また、奈良の唐招提寺を開いた鑑真和上はこの坊津から日本に入国しています。
実際にはこの港を使った記録はあまり残ってはいません。
しかし、整備するうちに様々な事情が出てきて使えなくなったのかなと思います。
薩摩隼人の反乱
薩摩隼人の反乱は大隅半島を中心にして起こります。
現在の国分・隼人地域を中心に広大な地域で起こったそうです。
また、面白い話があります。
この隼人の乱の後にあった藤原廣嗣の乱にも隼人が参加しているんですね。
これは奈良の都に納税に向かう隼人を廣嗣がスカウトしたようです。
納税の途中に反乱に参加する。
南国特有の気分の高揚だったのか、政府に不満だったのか・・。
その後、薩摩隼人は宮廷衛士になります。
京都府南部に移り住んだグループもいました。
南九州人に助けられた奈良県設置運動
奈良の政府は南九州を分国して、反乱をまねきます。
それから1200年余りの後に、今度は奈良がなくなります。
明治の廃藩置県に始まる事情の中で奈良は堺県に吸収されます。
奈良人の嘆きようは多くの記録に残っている通りですね。
そして奈良県再設置運動が始まります。
その再設置を手助けしたのが旧薩摩藩士税所篤です。
かつて奈良がやったことを今度は南九州の人が行います。
しかし、それは反感ではなくて願いへの手助けでした。
日向分国と堺県からの奈良分離独立運動。
税所篤はそのことを知っていたのかどうか。
平城京中央政府だった奈良は1150年後、イチ地方へ。
旧日向国は明治維新を起こし、中央政府の一員となります。
ここに神話の東征の話も一つ入るかもしれません。
薩摩隼人と奈良県再設置運動について思うままに書いてみました。