強大な今川義元の勢力が織田家に忍び寄ります。
そこに立ち向かわざるを得ない織田氏。
その背後にいる斎藤氏。
その巨大な今川氏は実は黄金時代を迎えていました。
麒麟がくるの解説9回・・今川が黄金時代を迎えていた理由を紹介します。
麒麟がくるの解説9回・・実は家督相続順位が低かった今川義元
今川義元は今川氏10代当主今川氏親の第3男として生を受けます。
本来は後継者であるわけではありませんでした。
義元は仏門に入り、京の妙心寺に学びます。
6歳の時に父氏輝がなくなります。
そして、兄からの命令で駿河に戻ってすぐに兄が亡くなります。
しかし、なんと兄の氏親と同日にもう一人の兄彦五郎も亡くなってしまいます。
残ったのは兄弟で側室の子である兄と義元の2名でした。
この当時、母方の実家は重要でした。
それそのものが当人の戦力になるからです。
義元は正室の子であるため、多くの家臣が義元を推しますが、一部は兄を推します。
ここで、争いになりますが、反義元勢力は崩壊します。
義元勢力は父氏親が育てた相模神奈川の大名北条家の支援を受けます。
そして、ここに、今川義元の政治基盤が抗争に勝つことで確立します。
麒麟がくるの解説9回・外交で失敗を経験する
今川義元はその後、甲斐の国武田の当主信虎と同盟を結びます。
しかし、ここで問題が発生しました。
北条家は武田家との関係が悪かったんですね。
義元が後継者争いに勝利するために援護してくれた北条家の反感を買います。
北条家は駿河に侵攻し、駿河国の東部分を占領してしまいます。
そして、隣遠江の家来だった井伊氏などがそれに合わせて反乱を起こします。
義元は晩年、外光の天才とも呼ばれますが、こういった点で失敗しています。
義元18歳の試練でした。
こういった義元の試練の際に、実は尾張の織田信秀が三河国今川領に侵攻しています。
麒麟がくる解説9回・・北条氏康との出会い
そんな危機は情勢の変化によって改善されます。
今川家を悩ませていた関東の北条氏の当主氏綱が死去します。
氏綱は父早雲に負けない名将で、混沌とした関東に勢力を伸ばしていました。
その最前線は武蔵国川越城でした。
北条家の勢力拡大は多くの関東勢力の反感を買っていました。
そこに関東の諸大名が室町将軍家の関東責任者を担いで攻撃に向かいます。
8万ともいわれる未曽有の大軍が攻め寄せます。
31歳の北条家当主北条氏康。
しかし、この氏康が北条家を代表する天才武将でした。
氏康は武田・今川と仲直りをして、関東に集中します。
そして、ある夜、1万の総勢で8万人に夜襲を敢行し相手を潰走させます。
今川義元はこの北条氏康と、甲斐の武田晴信(信玄)との三国関係の発展を模索します。
麒麟がくるの解説9回・・三国同盟が生んだ織田家の危機
そして、ここに著名な三国同盟が締結されます。
今川義元は東海道・武田晴信は信濃・北条氏康は関東に専念します。
富士山を一つの起点に3つの戦国大名が連携をしたんですね。
1554年、今川義元34歳の偉業です。
1552年に織田家では織田信秀が死去します。
織田信長18歳の時です。
今川義元の盟友、武田晴信は信濃国(長野県)に侵攻します。
こうなると、今川義元が進む東海道ではまだ完全に掌握できていない三河にも影響が出ます。
長野県の西南に位置するのが三河です。
三河の最大勢力は当時松平清康でしたが、家臣の乱心にあって死去します。
そのあとを息子の広忠が担いますが、また家臣の乱心にあって亡くなります。
後の徳川家康はそんな状況の中、今川家に人質に出ていました。
今川義元は外交の危機を整え治して準備をすすめ、やがて上洛作戦へ向かっていくのでした。
麒麟がくるの解説9回は今川が黄金期を迎えていた理由でした。