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奈良市長仲川げん氏の12年間を語る・公約のガラス張り市長室・

奈良

奈良市長仲川げん氏の12年間を語ります。

第4回目。
今回は奈良市長仲川げん氏が公約にしていたことを中心に書きます。

奈良市長仲川げん氏の12年間・ガラス張りの政策の行方を紹介します。

民主党の風と共に民主ism仲川げん氏

2009年7月、奈良市に仲川げん奈良市長が出現します。
奈良市長の座を争った鍵田忠兵衛氏は興福寺宝蔵院流の家元でもありました。
奈良の古い世界の代名詞のように感じたぐらい、仲川げん氏の登場は新しく感じました。

民主党の風で当選した仲川げん氏は民主ismで改革「ガラス張りの行財政改革」を前面に出します。

その目玉は私が今、覚えているだけでいくつかありました。

ガラス張りの市長室を市庁1階に作る
事業仕分けを行う
天下りを撲滅する

奈良は一躍世間の注目を集めました。

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仲川げん氏の公約ガラス張りの市長室

奈良市長仲川げん氏の公約で一番の目玉はガラス張りの市長室を作ること。
場所は奈良市役所の1階の平城京の復元模型がある場所です。

当選から多くの人が市長室に押し寄せてきたと後に聞きました。
本人はそれも含めてガラス張りにして世間に見せたかったでしょう。
しかし実際は、人に見せられないことも市長の仕事には多いでしょう。
団体との折衝や、陳情から事業の計画などまで。

耐震や安全性などが理由にこの公約は消えました。
しがらみのないことが売りだった奈良市長仲川げん氏。
ガラス張りの市長室の話は1年ぐらいでなくなった記憶があります。

仲川げん奈良市長の公約・事業仕分け・

次に始まったのは民主党看板事業の事業仕分けでした。
民主党と同じで大会場に専門家が集まり担当課の話を聞きジャッジします。

奈良市長とすれば、無駄を見つけるという大義名分のうちに進めたのでしょう。
しかし実際に何が仕分けされたのか。

その中でも奈良市の外郭団体の一本化は市長にとっては大きな目標だったのではないかと思います。
しかし、これも最終的に考えるとどうだったのか、素人ながら疑問でした。

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仲川げん奈良市長の公約・天下りの根絶

仲川げん奈良市長の公約には天下りの根絶がありました。
奈良市の部長など主要ポストを歴任した後に外郭団体の役職に行く。
そんな全国各地にあった光景を市長は根絶しようとします。

私には未だに忘れられないことがあります。
奈良市の外郭団体にならまち振興財団がありました。
1990年代から始まった奈良市によるならまちの事業展開。
その事業展開の中枢を担ったならまち振興財団。

そこにならまち出身の職員が市民生活部長退任後に就任します。
それを市長は天下りだと散々叩きました。
しかし、これを天下りとみるかは微妙だと思いました。
給料は週5日勤務して20万円程度。ボーナスはたしかなかったと思います。
奈良市の部長級といえば年収は1200万はくだらないそうです。

市の外郭団体が市と共に動くためには一定の潤滑油が必要でしょう。
私は新聞で報道された市長の主張と、自らの仕事の関係上にいる現場の人の話を両方を聞くことができました。

ならまち振興財団はその後、奈良市総合財団に吸収されます。
総合財団内部にもならまち振興事業部門という部門があり引き続き仕事の交流がありました。
しかし、それも市長が予算を切ってしまい、3年程前に消滅しました。

今は奈良市のならまち振興は奈良町にぎわい課という部署がやっています。
しかし、私の会社とはほとんど交流がありません。

ならまち振興財団はならまち地域の振興のために本当に活躍されていました。
私の会社も普段から情報交換やイベントの協力などを行っていました。

今思うと、私のならまちにおける活動は、ならまち振興財団があったころが一番充実していました。
そして楽しかった。

奈良市長仲川げん氏の12年を語る・公約のガラス張り市長室について書きました。

次回第5回目は奈良市長仲川げん氏の奈良ひとまち大学について紹介します。

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