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奈良市長仲川げん氏の12年を語る・2009年7月の奈良市長選挙

奈良
奈良市長仲川げん氏の12年を語る・2009年7月の奈良市長選挙

2009年3月、奈良市長藤原昭氏が市長選挙に立候補しないことを表明します。
議会との軋轢や推進していたホテル誘致事業がとん挫したのが原因だったと思います。
そこに彗星のように政治の舞台に名乗りを挙げたのが仲川げん氏でした。

奈良市長仲川げん氏の12年を語る・2009年7月の選挙について紹介します。

奈良市長と奈良市政

奈良市と政治家の関係は2通りのパターンがあると思います。

行政関係出身市長は議会と対立
政治家出身市長は市役所内部との対立

本来、政治主導のはずが、奈良は市役所が長年の慣習で対立するようです。

仲川げん氏の選挙公約と本命、鍵田忠兵衛

“しがらみのない改革”・“多選禁止”・“退職金の廃止”
など、当時を時めく民主党の後押しでガラス張りの行政運営を公約に掲げます。

この時、本命は奈良市の不出世の市長鍵田忠三郎氏の子息忠兵衛氏でした。
鍵田氏には忠山会という強固な選挙組織が存在していました。

2005年にはその鍵田忠兵衛氏は小泉旋風に乗っかり、民主馬淵澄夫氏と衆院選で鎬を削りました。
自民の森岡氏は郵政民営化反対で自民党の公認を失っていました。
馬淵氏が勝ち上がり、鍵田氏は比例で復活しました。

勢いのある馬淵氏が後援する民主党推薦の仲川げん氏。
強固な後援会忠山会を持つ鍵田忠兵衛氏。

この激突となりました。

私はこの選挙は当初から仲川氏が勝つと思っていました。

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訪ねてきたダイエーOBの鬼頭氏

そんな情勢の中で、選挙が始まります。
私は当時、まだ奈良町情報館の受付で案内などを行っていました。
そこに1人の中年のおじさんが訪ねてきました。
現役時はダイエーで働いていた富雄在住の鬼頭氏という方です。

お酒の飲みすぎで毎日歩かないといけないと言われ、ならまち界隈を良く散策されているとのこと。
そこで選挙の話になったのを覚えています。

鬼頭氏は私に鍵田が勝つと言われていました。
しかし、私は仲川げんが勝つと思うと言っていました。

仲川氏の選挙事務所は当時、三条通りにありました。
鬼頭さんは一度、事務所に行ってみると言われていました。
鬼頭さんは選挙の期間中、2日に1回ぐらい奈良町情報館に来館されていました。

仲川げんの選挙事務所に行く

私も選挙の前々日に、当時は彼女だった妻と一緒に事務所に行きました。
夕方、仕事を終えたあとでした。
細長い選挙事務所で、奥で仲川氏は誰かからレクチャーを受けていました。
入口付近には応援メッセージの付箋が多く貼ってありました。
暫く付箋を見ていると、ありました。

仲川さんががんばれ!応援してる! 鬼頭

仲川氏に声だけかけて、帰ったのを覚えています。

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当選発表と鬼頭氏

選挙情勢は私もとても気になっていました。
私にも強力な支援者が1人いました。
当時、奈良新聞の取締役編集部長をしていた小久保忠弘氏(現、地域活性局相談役)です。
小久保氏に電話して聞いてみると、情勢は五分だと言われていました。

それが投票日前の金曜日(翌々日が開票日)でした。

開票の日、テレビで万歳を見ました。たしか23時ぐらい遅い時間だったと思います。
奈良はいつも開票作業が遅くて有名です(それは今も改善されていません)。

奈良は少しずつ変わっていくのではないかと多くの人が思ったでしょう。

翌日、鬼頭氏が訪ねてきました。
私の読みを大絶賛してくれ、それからよく訪ねて来てくれるようになりました。
ちなみに、鬼頭氏は仲川げん氏の第二回の選挙にも参加していました。
選挙の良さは選挙を通じて普段合わない人と交流ができることだと思っています。

多くの人の思いを集めた仲川げん奈良市長の誕生。
しかし、現実は非常に厳しく、苦戦の日々が続きます。

奈良市長仲川げん氏の12年を語る・2009年7月の奈良市長選挙について書きました。

次回第4回はガラス張りの政策と仲川げん氏がやりたかったことを書きます。

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