1945年8月6日。
広島に原爆が投下されます。
原爆はなぜ投下されたのか。
また、なぜ広島だったのか。
そこには明治維新以後、日本の主役となった広島の存在があったでしょう。
太平洋戦争の記憶・明治維新広島を軸にした大陸進出と殖産興業の軌跡原爆ドームを紹介します。
幕末、倒幕に活躍した広島藩と家老辻将曹
明治維新は薩摩と長州の同盟による倒幕から紆余曲折を経て成功します。
全国の諸藩を如何にして取り込みながら革命勢力を作るのか。
そこで活躍したのが広島藩家老辻将曹でした。
辻は、藩政改革を大胆に推し進め、産業奨励・政治機構の再編、財政改革を成功させます。
これにより、広島藩は急速に力を持ちました。
そして、江戸幕府と長州藩(山口県)の戦争の講話中立をするなど存在感を出していきます。
辻は、薩長に芸(安芸 今の広島県西部を指す)を加えて、三藩で行動を行います。
一方で、土佐や肥前・福井などの諸藩にも辻は声を掛けていくことで勢力の拡大を行いました。
その拡大は同時に革命の考えを薄くさせる妥当な案件へと進むことにもなります。
その結果、広島藩は倒幕側の主流でしたが、薩長政権に体よく外されてしまいます。
辻将曹は復古功臣34人の1人に選ばれますが、維新政府では活躍できませんでした。
大陸進出が軍都広島を大都会にする
明治維新以降、日本は富国強兵・殖産興業を推進します。
そして、日清戦争にて日本帝国陸海軍の本部が広島におかれます。
広島の町は、海を使い、大陸まで進むことができること、尚且つ、内陸にあること。
様々な要因が重なり、軍都として広島が発展します。
軍都には天皇陛下始め、政府軍部の高官が戦時体制の際は常駐することになりました。
それにより、広島の町は急激に軍都として発展していくことになります。
広島物産陳列館
軍都は多くの軍隊や関係者が駐留するためにさまざまな物資が必要になります。
そこで、広島県では地域でも産業を奨励し、殖産興業を推進するべく施設を建設します。
それが広島物産陳列館です。
1915年に開館し、1933年には広島県産業奨励館となります。
1862年、辻将曹が行った広島の殖産興業は、50年の時を経て、活発化したでしょう。
日中戦争から太平洋戦争までの戦時下では内務省や広島県の軍需物資でもある土木関係の組織が入居します。
軍都広島の富国強兵。
そしてそこに付随した殖産興業。
二つの看板政策は、天皇も駐留する軍都広島城とこの産業奨励館をもってして具現化された形となったでしょう。
広島城と広島県産業奨励館。
明治維新の象徴ともいえるこの二つの施設は、1945年8月6日灰燼に帰します。
1945年8月9日広島の原爆と原爆ドームと
都祁小学校の生徒による原爆投下の模型(平和学習の一環で製作)
米国は親ソのルーズヴェルトが死去し、嫌ソのトルーマン副大統領が大統領に就任します。
ソ連の対日参戦を防ぎたかったトルーマン大統領。
その思惑の一方で、民主党議員だったルーズヴェルトのような政治力を持たないトルーマンは軍部を抑えきれません。
また、日本側も国家総動員法を作るなど国民総動員となります。
それは米軍にも無差別攻撃を正当化する理由ができました。
1945年8月6日、広島に原爆が投下されます。
船上で急にその法に接したトルーマン大統領はその場の口上でメディアを凌ぎます。
1945年は米軍軍機による日本人への無差別爆撃・機銃掃射が激増します。
そして、広島・長崎への原爆の投下。
広島は米軍の原爆の効果の実験として適地だったと言われています。
半径5㎞が平地であること。
平地での爆発はどのようになるのか。
それを米軍はその実験によって調べようとしていました。
また、軍都広島を吹き飛ばすことで日本人の戦意を喪失させようとしていました。
原爆投下により明治維新の象徴だった広島城と広島県産業奨励館は灰燼に帰します。
1868年からの積み上げは1945年の夏で、一度は消えたと言えるかもしれません。
辻将曹の墓
原爆の投下によりもう一つ、辻将曹の墓も原爆で吹き飛ばされます。
辻将曹という人がいなければ、極端に言えば歴史は変わったかもしれません。
辻将曹という人を輩出した広島。原爆を投下された広島。
戦後の広島
戦後の広島は軍都という顔から被爆地としての再出発を行います。
令和に至るまで多くの苦労があったでしょう。
100年草木も生えないと言われた原爆。
しかし、広島は100万都市として日本を代表する大都市を形成しています。
中国地方の主邑である大経済都市は今でも夏になると原爆の歴史と共にあると言えるでしょう。
戦争とは何か
先日、長崎の原爆の戦没者慰霊の際、こんなスピーチに心を打たれました。
「私の好きだった夏の長崎は1945年に亡くなってしまった。それを返してほしい」と。
広島でもきっと多くの人がそう思われているでしょう。
戦争とは、突き詰めていけば、組織同士の労働力を総動員した争いです。
しかし、そこに人の死があます。悲劇があり被害があります。
そんな被害を受けた人の感情はこの社会のどこに共存すればよいのでしょうか。
太平洋戦争の記憶・明治維新広島を軸にした大陸進出と殖産興業の軌跡原爆ドームを紹介しました。