地域活性局

藤丸正明

松本城の築城者石川数正について


さて、真田丸の14話(大坂)には石川数正という人物が登場します。

彼は徳川家康の重臣です。

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彼は1533年生まれのため、1543年生まれの家康よりも10歳年上です。

上田合戦は1583年なので、家康40歳、数正50歳です。

当時は50歳といえば晩年といえる歳です。

彼は家康が今川氏から独立するにあたっての難題をクリアします。

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家康は当時、今川氏の元に奥方と嫡男信康を人質に出していました。

独立すると人質は殺されますが、数正が救出してきます。

これには色々と事情があり、当時、今川氏真が可愛がった子供が2名いました。

その2名を家康は捕えることに成功します。

数正はその2名の人質と交換で家康の奥方と嫡男信康を返してもらう交渉にむかい、成功しました。

その後も数々の合戦で活躍し、1563年には酒井忠次・石川家成に次ぐ家老になりました、

さらに叔父の家成が静岡に転出すると、西三河のまとめ役になります。

また、家康の嫡子信康の後見人にもなることで徳川家の大黒柱になっていきます。

それに伴い事実上、徳川政権の西側の責任者となりました。

この頃、徳川政権は西側の岡崎衆と東側の浜松衆に分かれていました。

西側の岡崎衆は石川数正が旗頭・東の浜松衆は酒井忠次が旗頭です。

ここで一つ問題がおきました。

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家康の嫡子、信康が切腹します。

原因は諸説ありますが、信康の妻は徳姫といい、信長の娘です。

信長は近親を非常に大事にしたといわれています。

そして、信康の切腹は信康の母築山殿も一緒でした。

築山殿は今川義元の一族関口氏から徳川家に嫁に来ています。

そうすると、徳川家の中に今川派の築山殿グループと織田派の徳姫グループが存在します。

それがいがみ合ったんですね。

しかし今川は滅びました。

信長は天下取りのレースをかけのぼります。

それに対して、築山殿は武田勝頼になびこうと工作したといわれています。

それに信康を巻き込んだような形になったようです。

それに対して、家康は酒井忠次を安土に派遣して、信長に信康切腹の許可を取ったといわれています。

ここで問題なのは、信康の後見人は酒井忠次ではなく、石川数正です。

信康は切腹してしまいます。

数正はそれ以後も岡崎衆の旗頭として存在しました。

しかし、どうでしょうか。自分が後見している後継者が切腹させられると。

感情的なしこりが残ったでしょう。

数正はその後も重用されます。

彼は主に外交は西側、つまり織田・豊臣を担当します。

そして秀吉という人に出会います。

豊臣政権の巨大さを生で見るのは、徳川家中では数正一人なんですね。

彼は豊臣家との外交に何度も成功しています。

そのうち、徳川家が生き残るのは豊臣家に臣従することだと確信します。

しかし、家康はそれに従いませんでした。

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数正は孤立していったといわれています。

結局、数正は仲間を何名か誘って徳川方を去ります。

その後の数正は秀吉から信州松本城をもらい、お城と城下町の整備を行った他は大した業績がないまま、1593年に死去したといわれています。

ちなみに彼の次男康勝は大坂夏の陣で真田信繁(幸村)隊と共に天王寺口で戦死しています。

康勝は秀吉の元に人質に行っていたのですね。

康勝にとって大阪城とは思い出の場所だったのでしょう。

同時に信繁も大阪城での楽しかった人質時代の思い出も大坂の陣への参加理由の一つでもあったのではないかと思います。

徳川家康が天下統一を果たす中で、無数のドラマが生まれたといえるでしょう。

松本城は城下町と共に、とても観光客に人気の観光地です。

晩年の数正がすべての力を注いだ松本の町。

一度訪ねてみたいなと思います。

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