東北の英雄といえば伊達政宗ですね。
もう少し早く生まれていれば・・・という話をよく聞きます。
伊達政宗の伊達な性格についてはちょっとした逸話があります。
伊達政宗を年表や性格や逸話を紹介します。
伊達政宗の年表・・・真田幸村と同じ1567年生まれ
伊達政宗の年表から遅生まれを確認します。
伊達政宗の年表
1567年 生まれ ※伊達政宗は真田幸村と同じ生まれ
1584年 家督相続 16歳
1590年 豊臣秀吉に臣従 22歳
1600年 関ケ原の戦い 32歳
1614年 大坂の陣 46歳
1636年 死去 70歳
伊達政宗を年表で見てみると、若いうちから激動の中で生きています。
真田幸村が同い年であっても、幸村は父の昌幸と40歳前後まで共にしています。
伊達政宗の性格はおしゃれで見栄っ張りだった!?
伊達政宗の性格を逸話から探ってみます。
伊達政宗の性格を物語る逸話に黄金判の話があります。
諸大名に黄金判を見せびらかしますが、直江兼続に嫌味で返されます。
武士は小判は触らないと考える直江兼続と自慢したかった伊達政宗の性格の差・・。
また、この頃から、おしゃれな人を伊達者というようになったそうですね。
これは伊達政宗が上洛する際のその兵隊達の衣装などがおしゃれだったそうです。
伊達政宗は見栄っ張りな性格だったのでしょうか。
そしてそれがおしゃれに繋がっていたのでしょう。
伊達政宗の血液型はB型だった?!
戦国時代は手紙に自らの血で印を押す血判が良く使われていました。
伊達政宗の手紙にも血判が残っており、そこから血液型が判明しているようです。
伊達政宗の血液型はB型だったそうですね。
お洒落だったり、見栄っ張りだったりする伊達政宗の性格は血液型からも見えるという学者さんもいるようです。
伊達政宗の経歴と逸話
伊達政宗の経歴は山形県米沢市に生まれて始まります。
そして1584年に16歳で父輝宗の隠居に伴って17代当主となります。
17歳にして父を失い、東西南北すべてに敵を作りながらも勢力を拡大します。
この頃、政宗の最大のライバルは茨城の佐竹義重でした。
佐竹義重は茨城のほぼ全土を影響下に置き、栃木にも絶大な影響力を持っていました。
佐竹は北条氏と敵対していたため、早くから豊臣秀吉との関係を強化していました。
政宗は佐竹の敵は仲間ということで北条と手を結びます。
そして、秀吉の発した惣無事令(戦争停止命令)を無視します。
佐竹義重はこの惣無事令を守り、伊達政宗との戦争を辞めてしまいます。
伊達政宗は会津若松の芦名氏を滅ぼし勢力圏を大きくします。
その結果、政宗の周辺の敵で佐竹を頼っていた勢力は政宗に降伏します。
そして政宗は東北の中央部分をほぼ制覇することに成功しました。
しかし、ここで秀吉の小田原征伐が始まります。
近隣を制圧したばかりの政宗は領土の安定が重要で北条の応援に行けません。
伊達政宗は豊臣秀吉への降伏し、父から受け継いだ領地以外は没収されます。
伊達政宗の大坂の陣の逸話と真田幸村との友誼
伊達政宗は大坂の陣では1万の兵隊を連れて参陣します。
伊達政宗の部隊には有名な騎馬鉄砲隊がいます。
騎馬のスピードで鉄砲を打ちかけます。
大坂夏の陣では、真田幸村と伊達政宗が対戦します。
ここでは信繁はこの騎馬鉄砲隊への対策を編み出し、撃退します。
大河ドラマ真田丸でも伊達政宗が撃退されるシーンがありました。
さらに、「真田丸での伊達政宗」に関連するシーンがあります。
信繁の娘はこの合戦の夜に、信繁の指示で伊達の陣へ向かいます。
伊達家の重臣片倉重長はちょうど伊達家の先頭に陣がありました。
そこで、幸村の娘に出会います。
そして幸村最後の日を迎えます。
信繁の活躍は凄まじく、日本一のつわものと呼ばれます。
徳川方の多くの武将は信繁の遺体から髪を1本ずつもらい持って帰ったそうです。
戦後、幸村の娘と片倉重長は結婚しました。
幸村の血は仙台に残りました。
伊達政宗は徳川から真田幸村の娘をかばい尽くしました。
伊達政宗を年表や性格を逸話をもとに紹介しました。