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太平洋戦争の記憶 広島の原爆 アメリカの思惑と被爆者の記憶とこれから

太平洋戦争の記憶 歴史

1945年8月6日。

日本国広島市には世界で初めて原爆が投下されました。

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広島に原爆が投下されてから71年。

太平洋戦争の記憶。

そこに残る話を少し書きたいと思います。

 

 

アメリカは太平洋戦争を主導したルーズベルト大統領が1945年4月12日に逝去します。

この突然の死に、副大統領のトルーマンが大統領を引き継ぎます。

トルーマンという大統領はソ連に対してとても危機感を持っていました。

共産主義を日本という島国で防ぐことでアメリカへの共産主義の流入を防ごうと考えたといわれています。

そして、日本が敗北必至の段階に至って、ソ連に講和の仲介を頼んでいるという情報を得ます。

その間、そのほかにも様々な動きがあったようです。

しかし、8月15日にソ連が対日参戦することをトルーマンは聞きつけます。

そしてそれを阻止するためにも、日本を降伏させることを急ぎました。

原爆はマンハッタン会議という会議で計画された新型の爆弾です。

マンハッタン計画は1942年10月から始まっていました。

この計画は終了までに22億ドルが使われています。

当時の日本の国家予算のおよそ3.5倍に当たりました。

国家としてはこの計画の成果の必要もあったでしょう。

また、新型兵器の使用により日本国民の戦意を著しく落とす思惑があったのでしょう。

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そして8月6日を迎えます。

一昨年、私は広島にご縁をいただきました。

それは広島県の茶道関係者の方でした。

奈良のお茶会を参考にさせてほしいというメールをいただきました。

その際に2度、広島に足を運ばせていただきました。

実際に訪問してみると、実家の和菓子屋のお客様の社中の方でもありました。

そして、主にお茶会のお話しをさせていただきました。

その一方で、私の目的は広島での被爆体験を聞くことでした。

 

1945年8月6日。

原爆は広島の中心部を吹き飛ばしました。

その日・その時。

茶道の世界では広島にはその人ありと言われている方がいらっしゃいます。

その方の被爆体験をお会いした人からお聞きしました。

その方は、まだ生まれて3年もたっていませんでした。

その日。

母の背中に背負われて、広島の町中にいました。

原爆が爆発した瞬間、母ともども突風で吹き飛ばされました。

そして、母の方が意識を取り戻します。

自分の子供を探すと、砂に顔を埋めて呼吸をしていなかったそうです。

母は息子を抱き上げて、絶望したでしょう。

家に帰る道沿いにお店がありました。

そのお店にはビンのサイダーが転がっていました。

母は呼吸の止まった息子に最後にサイダーを飲ませたいと思い、店主に分けてもらいました。

そして、飲ませたところ、奇跡的に蘇生をしたそうです。

 

 

広島は原爆の影響が町に影を落としています。

茶道関係者の方からお聞きした印象に残った言葉があります。

「広島は70年経って、やっと文化を語ることができるようになった」。

今年はオバマ大統領が広島を訪問してくださいました。

太平洋戦争は感情などが残った恐ろしい思い出から少しずつ、歴史へと転換しようとしています。

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日本にとって歴史上忘れることができないこの出来事。

それは戦勝国アメリカにとっては政策の一つでしかないように思います。

戦勝国アメリカと敗戦国日本の関係。

これは太平洋戦争だけで考えてはいけないでしょう。

ペリー来航から日露戦争の仲介役、そしてオバマ大統領の広島訪問。

海を隔てた隣国との関係。

70年経って見えてくることがあります。

 

 

太平洋戦争の記憶。

太平洋戦争の記憶は、日本社会にとっては記録に変わる時期に来ています。

茶道関係者の方々は言われていました。

広島には被爆したお茶道具が多く、あるそうです。

しかし、そのお道具は記憶を呼び起こすものとして使われていないそうです。

70年経った今、今度は太平洋戦争の記憶をテーマにしたお茶会が開催されれば訪ねたいと思います。

太平洋戦争の記憶・アメリカの思惑と被爆者の記憶とこれからについて書きました。

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