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木村重成の生涯・能力や逸話・妻とお墓の逸話を紹介します

歴史 真田丸

大坂夏の陣のクライマックスの一つ。

木村重成の最後。

木村重成はその逸話などの雰囲気からイケメンとして扱われます。

真田丸でも白石隼也さんがイケメンキャストとして木村重成を演じていました。

木村重成の生涯・能力や妻の逸話・お墓の逸話を紹介します。

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木村重成の両親

木村重成は豊臣秀次の側近木村常陸介重玆の子供だといわれています。

秀次事件で重玆は切腹してしまいますが、重成は幼少のため罪を問われません。

しかしなぜか、親に関しては異説もありよくわかっていません。

母は宮内卿局で、とても思慮深い性格の婦人だったそうです。

宮内卿局は豊臣秀頼の乳母でもあります。

そんなところから、秀頼と重成は幼少期からともに過ごす機会が多かったようです。

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木村重成の妻

木村重成の妻青柳は豊臣家譜代家臣の真野頼包の娘です。

青柳は大坂城内随一の器量人と呼ばれていたそうです。

重成はいずれ徳川との手切れの際は討ち死にする予定だったそうです。

なので、妻は娶らないと真野頼包に言ったそうです。

真野頼包は青柳は主人を討ち死にさせるだけの女ではないと言ったそうです。

木村重成の妻に関する逸話です。

木村重成の逸話はそのまま絵になるような話ばかりです。

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豊臣方の譜代家臣木村重成

さて、木村重成は1593年頃に生まれたといわれています。

もう秀吉政権の晩年ですね。

そして大坂の陣1614年に始まります。

彼は数え年で20歳ですね。

多くの牢人が大坂城に入城します。

木村重成は後藤又兵衛・真田幸村に親炙したといわれています。

後藤又兵衛や真田幸村からすると木村重成は豊臣譜代の中で最も話しやすい人物となります。

 

当時は身分制の社会です。

豊臣秀頼は先の右大臣です。

牢人衆は直接秀吉には口が聞けないんです。

なので、秀頼の側近に知己がなければ秀頼に意思も伝えられません。

側近といえば、大野治長や織田有楽ですね。

そこに木村重成もいます。

後藤又兵衛や真田幸村は木村重成を介して秀頼にいわば教育を施していきます。

木村重成の能力

大坂冬の陣では木村重成は後藤又兵衛の協力を得ながら今福の合戦を主導します。

木村重成はこれが初陣だったようです。

木村重成は真田丸では少し気の弱そうな雰囲気を出しています。

しかし、彼は実直でかなり進撃主義者だったようです。

その証拠に今福の合戦でも簡単に突撃を開始します。

この戦いは豊臣方の砦を徳川方が占拠したため、豊臣方が奪回に向かった戦いです。

木村重成は徳川方の佐竹義宣の重臣の渋江政光を討ち取る手柄を立てました。

しかし、徳川方に上杉景勝勢などが来援したため撤退します。

彼は前に進もうという意思が強い人間だったのでしょう。

木村重成の能力は前に進む必要がある時に発揮されます。

それを後藤又兵衛や真田幸村は知っていたでしょう。

その木村重成の能力が発揮されたのは大坂夏の陣でした。

 

木村重成の逸話・・大坂冬の陣の講話の逸話

大坂冬の陣の講和の使者を木村重成は務めています。

その際、講和の押印を秀忠と家康に求めています。

家康は血判の血の色が薄かったといわれています。

それを重成は念を押して再度押させたというエピソードがあります。

それが徳川方から見るといかにも堂々としているように見えたそうです。

大御所様にも臆しない家臣が豊臣譜代にもいたのかと称賛されました。

 

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木村重成の逸話・・大阪夏の陣の逸話

さて、そんな木村重成の逸話

彼は大坂夏の陣では若江(東大阪市)方面に出陣します。

大阪平野を豊臣方の一番北部を東進します。

そして運がいいのか悪いのか、木村重成は「徳川方最強」井伊直孝の軍と激突します。

井伊家は徳川方が武田信玄の遺臣などを付属させた赤備え部隊です。

そこにあまり銃撃戦も行わずに突撃します。

結果、井伊家は大損害を受けましたが、重成も討ち死にします。

井伊家は大坂の陣最後の天王寺の戦いには参加できなくなりました。

 

木村重成の逸話・・・徳川家康が称賛した重成の覚悟

さて、木村重成の最後の逸話。

彼の首は徳川陣営に届けられて首実検されます。

徳川家康と共に側近たちが実検します。

その際に、兜の緒が切れていました。

それを側近が指摘し、準備の悪い兜だと嘲笑います。

それに対して、家康は兜を取ってみるように指示します。

すると、兜はお香のかおりが残っていたそうです。

これは重成が討ち死にを覚悟して、兜にお香を焚いていた証拠だと。

そして緒が短いのは再び兜を脱ぐことはないから切らせたのだと。

家康は側近にこのぐらいの心意気がそこに見えると代弁します。

 

木村重成はイケメンだったかはわかりません。

しかし、家康がそのように代弁したことで徳川期の木村重成の評価は保証されました。

若くて物怖じせずに果敢に戦う。

そんな木村重成を演じるとすればやはりイケメンになりますね。

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そして木村重成はその死後にもう一つの逸話が残っています。

 

 

木村重成の妻青柳の逸話

木村重成の妻、青柳は大坂城内に退却してきた家臣たちからその逸話を聞きます。

そして生前の重成の指示通り、滋賀県近江八幡市の旧馬淵村の親戚を頼って落ち延びます。

妻の青柳は木村重成の子供を産みます。

その後、木村重成の1周忌の日に持仏堂にこもって自害したそうです。

主人の覚悟や気分を妻は裏切らなかったのですね。

この雰囲気はさすが武士の妻・木村重成の妻だなと思います。

 

木村重成の子孫はその親戚の家の当主となったそうです。

そして、その子孫たちは近江商人として活躍します。

近江商人で木村性を名乗る人の多くは木村重成の子孫を名乗ります。

 

木村重成のお墓の逸話

大坂では戦前まで、八尾にある木村重成のお墓の香華が絶えなかったといわれています。

そして、彼の戦死した日6月2日には大阪から重成のお墓詣でで行列ができたそうです。

そんな商都では、木村重成の子孫を名乗ることは商売の成功を意味したでしょう。

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木村重成の家紋は目結紋といわれています。

これは佐々木源氏などの滋賀県の源氏に多く使われた家紋です。

木村重成がこの家紋を使っていたということはやはり近江源氏だったのでしょう。

実際に馬淵村のすぐ近くには近江源氏佐々木氏の神社がありました。

木村重成の逸話などを紹介しました。

 

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