中学校に入学する1か月前。
実家では祖父母が始めた和菓子屋を父が半ば追い出され、独立することになりました。
中学。
今思い浮かべても最も自分の多感な時期だったと思います。
祖父母が創業させた太宰府の神社の門前の和菓子屋のお孫さん。
地元でも当然のようにいわれていた立場がなくなった瞬間でした。
父は独立して食べていくことができるのか。
私はそれが非常に不安だったことは、今でも覚えています。
太宰府中学校。
ここはかつて鶏舎小屋だった場所だったそうです。
1年生の校舎はクラスのある棟の中では最も北側にありました。
心なしか少し薄暗い印象のある棟でした。
私が小学3年生の時、バブルが崩壊しました。
その後、小学4・5・6年生の間は、学級崩壊しているクラスもありました。
そんな環境の中、私の中学生活が始まりました。
1年生のクラス。
自分がとても浮いていたのを覚えています。
私の校区では、幼稚園・小学校はほぼ同じメンバーなんですね。
しかし、中学校に入ると他の学校の人と同じになります。
3分の1ぐらいは知らない人でした。
家はこれから食べていけるのかわからない。
学校では知らない人との関係を作らないといけない。
英語などの新しい勉強が増えていく。
何もかもが自分にとってはストレスでした。
日本の教育制度ではかつて江戸期などになると、
13-15歳の年の間に成人した大人になるべく教育されました。
自覚を促す時期でもあると思います。
男児13にして腰間に寸鉄を帯び・・という言葉が残っています。
高田屋嘉兵衛は13歳で自立を自覚し、秀吉はそのころはもがいていたでしょう。
現在の教育制度では教えるのはクラスが仲良く過ごすことと、
知識として学問を教えることの2点に絞られているように思います。
クラスが仲良く過ごすために、その輪に入れない人間は孤立していきます。
サラリーマン社会神話がまだ崩壊していない時代。
私は様々なシーンで孤独感を味わっていたのを覚えています。
そんな中でも、最も自分にとって苦痛だった存在が教師でした。
今はわかりませんが、当時の教師は何か自営業につらく当たる印象を持っていました。
今思えば、サラリーマン社会に生き残る少数派(自営業)の違和感だったと思います。
何かわからないほど、虐げられたことを覚えています。
忘れられない話を一つ。
学校では交換日記のような形で班で回す日記がありました。
私がそこに書いた内容を教師が非常に問題視してクラスの問題としました。
私が書いた日記の内容は今でも覚えています。
これは2学期の11月でした。
同じクラスの友人の兄が、中学1年の2学期から勉強を始め、
学区で最も進学校だった公立高校にA判定をもらっていました。
そこで、自分もそれを見習って勉強してみようと書いた内容でした。
それがおかしいと、教師から指摘され帰りのホームルームで全員に話し始めました。
そして、クラス全員にこの日記に対して意見を感想を書くようにと指示しました。
私は非常に嫌な気持ちになったので、次の日は学校は遅れていきました。
その時間は体育の時間で人は誰も教室にいませんでした。
すると、教室の後ろに私の日記の拡大コピーと全生徒の感想が貼ってありました。
私は未だに日記の何が問題で、このような仕打ちを受けたのかわかりません。
この日、私はそのまま、すぐに家に帰りました。
この時から教師は絶対に信用しないと心に決めました。
また、このころから学校にはあまり行かなくなりました。
一つは父の仕事が忙しくなり、その手伝いもありました。
私の父は、苦しみながらも人生に哲学のようなものがありました。
生き方についての話を聞きながら仕事を手伝うのが楽しかったのを覚えています。
学校は遠い存在になっていきました。
学校はその後、私とは無関係に非常に荒れていきました。
2年生になり、学校が崩壊していく際に、その教師は生徒に突き上げられていました。
そして、倒れて入院・・・。
学校はその学区で最も荒れた学校として他校にも非常に悪い印象を持たれていました。
人は多感な時期に感じた苦痛やトラウマは生涯忘れないでしょう。
その当時の自分にもし、会うことができれば、
それでも今は元気に楽しく生きているよと伝えたいと思います。
後ろの黒板に貼ってあった日記の拡大コピーを確認した瞬間。
これは一生忘れないと思います。
私はあの学校の同じ学年の誰よりも社会に貢献しようと思っています。
そしてその時代の教育の課題を太宰府でいつか高らかに課題に挙げたいと思います。
中学校で先生に虐げられて学校が嫌いになった話でした。