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太平洋戦争の記憶・・・国際社会で活躍した九州男児の戦争感

プライベート

田代空。

私の祖父の姉の長男にあたる人物です。
日本の人事院・国連の国際人事委員会等を歴任。
戦後の日本の人事制度に貢献しました。行政人事に関する多くの著書があります。

空氏は世界観が広く、私はお話を聞くのが大好きでした。
高校生の頃、2度ほど東京にお話を聞きに行きました。
戦前生まれ・戦時中の食糧難を経験した人物について紹介します。

 

田代空の出自

田代家は筑後大石の医者で有馬藩の御典医。
空氏の曾祖母に当たる人は広瀬淡窓の妹でした。

明治維新が落ち着いた頃、開拓団として筑後大石を離れます。
そして、今の熊本県人吉市の東部の現湯前町に入植します。
荒野を切り開き、大地主となります。

私の祖父の姉はこの田代家にお嫁に行きました。
そこで田代空は生を受けます。
田代家は12人兄弟。

子どもの名前はすべて曹洞宗に帰依していた両親が考えた1文字です。
戦前は食べるものがあまりなかったのでとてもお腹がすいたそうです。

空氏は終戦時、学生でした。
青年期の敗戦で、米軍何するものぞと思っていたと言われていました。

私の祖父と空さん

戦後の話です。

大学受験は何をしていいのかわからないまま勉強できることを必死にしたそうです。
空氏は私の実家に下宿し九州大学農学部に通います。

そのころ、私の祖父が和菓子屋を開業。
開業のその日、空さんはとても心配だったそうです。
その日、大学に行った振りをして街角からずっとお店を眺めていたそうです。

1日中眺めていたそうです。

私の祖父は無口でコツコツお菓子を作る職人だったそうです。
そのころも時折、祖母と口喧嘩していたそうですが、口喧嘩は祖母の方がいつも強かったそうです。

弟の生(まる)氏も九州大学に通っています。
お二人とも、帰省する際は、太宰府から熊本の実家迄山伝いに帰っていたそうです。

 

世界食糧農業機構へ

空氏は大学を卒業して日本の人事院に入ります。
その後、出向でタンザニア大統領府に出向します。
独立すぐの国の行政組織の指導を行ったそうです。

この頃、よく明治維新のことを学んだといわれていました。
その後退官し、国連の国際人事委員に就任し国連の人事制度に提言等を行いました。
国際人事委員は世界で4人しかいなかったそうです。

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空氏から聞いた話

私は高校生の時に都合4回空さんにお会いしました。
その時に聞いて心に残った話がいくつかあります。

空氏はその後、人事院の最高顧問(名誉職)をしていました。

国から褒章をいただいた際に私の祖母に送った手紙を私はもっています。
身寄りの少なかった私の祖父から見ると、姉の長男は非常にかわいかったそうです。

また、空氏も下宿させてもらった祖父母をとても慕っていました。
空氏から聞く祖父の話はどれも何か哲学的な話が多かったのを覚えています。

明治維新と大久保利通の話

空氏はタンザニア大統領府に出向した際に明治維新を研究します。

武士ばかりで政府を作っていた明治時代。

明治政府は国際社会の情報と各藩の事例を参考に政府を作っていったでしょう。
海外を学んで帰ってきた大久保利通。
大久保利通は明治政府の国家骨格を地道にコツコツと作り上げていきます。
空さんは大久保利通の話を私に4時間も5時間も熱弁してくれました。

一番印象に残った一言

「明治維新は大久保が一人で作った」でした。

これは明治の時代を生きた勝海舟も言った言葉です。
空氏は国家官僚として制度を知る際に大久保利通が非常に参考になったそうです。

 

博多港が国際貿易港にならない理由

私が高校生の頃中国の台頭でアジアとの交易が広がり始めていました。

それまでは太平洋側のいわば米国方面の貿易港が日本の貿易の中心でした。
それに対して日本海側の貿易港がメキメキと貿易高を上げはじめていました。

その際に空さんから聞いたお話です。
「博多は国際貿易港にはならない」
理由は博多湾の水深が浅いからとお聞きしました。
現在、北九州の港はアジア向けの輸出で活況を呈しているようですね。
一方の博多湾は客船が多いようですね。

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戦前に育った人の心意気

空氏のお話しで心に残ったお話しがもう一つあります。
戦前生まれの空氏は軍国主義たくましい時代に青春を過ごします。

そんな空氏は最後にポロっとこんな話をしてくれました。
「日本はアメリカに負けたのは単に物量のせい。もう一度アメリカと戦争をするんだ」。

そう話している空さんの表情はまるで15歳の少年のようでした。
キラキラと目を輝かせその話をしてくださいました。

空氏の敬礼

そんな空氏。
私はお別れする時、なぜか無意識に敬礼をしてしまいました。

戦争を歩んだ時代。
今、歴史を見返すと軍国主義とは飛んでもないという結論が多数を占めるでしょう。

しかし、同時にその時に青春を過ごした人も大勢います。
空氏は私が敬礼すると笑顔で敬礼を返してくれました。

その表情はまさに少年の笑顔でした。
それから私は情熱的な人とお話しをした後の別れの際は無意識に敬礼するようになりました。

空氏は2年前、逝去しました。

私には戦争という過ぎ去った時間が歴史になった瞬間を感じました。
そこに敬礼という一つの習慣が残ったように思いました。

戦後国際社会で活躍した九州男児の戦争観でした。

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