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福岡から奈良に来て感じた奈良という立ち位置

奈良

日本の歴史が始まった奈良。
1300年の都奈良。
人口130万人を擁する奈良(県)。
この地域は歴史の中である一つの傾向があることを最近知りました。
奈良に来て14年、福岡人が見て感じた奈良を紹介します。

 

大神神社と大神山神社に見る出雲の神の話

大和国一宮大神神社。
奈良で最も古いお社(日本最古とも)といわれています。
古事記によるとお告げを受けた大国主命がお祀りしたのが現在の大神神社ですね。

大国主命は出雲から奈良にやってきたのでしょうか。
ちなみに、大国主命の子供に事代主命という神様がいます。

事代主命は明日香村の飛鳥坐神社や御所市の鴨都波神社に祀られています。
事代主命は葛城の田の神として神託を司るといわれています。
大国主命は現在、出雲大社にお祀りされています。
また、事代主命は美保神社(松江市)にもお祀りされています。

この神話を辿ると大和に来た大国主命は事代主命を作り(または従え)、後に出雲に行ったのでしょうか。
鳥取大山には大国主命の子孫相見氏が宮司を務める大神山神社があります。

大神神社と大神山神社。
不思議な名称の類似ですね。

 

 

国譲りと奈良

大国主命と事代主命は大和から出雲に追放された説もあります。
大国主命と事代主命に国譲りを迫ったのは天照大神とその部下の建御雷命ですね。
大神神社のご神体の山の東側に元伊勢宮というお社があります。
伊勢神宮はもとはここに鎮座していたという場所です。

他にも春日大社に建御雷命・その建御雷命が使った剣をお祀りしている石上神宮。
ここに歴史の何かがあるのでしょう。

 

天津神と国津神

日本の神様の系統は2つあります。

大国主命を始めとする国津神(地域の神)
天照大神を始めとする天津神(天孫降臨した神)

天皇陛下の祖先は伊勢神宮の天照大神ですね。
つまり、日本の朝廷は古来から天津神を信仰しています。
奈良は国津神と天津神が錯綜しています。

奈良にいた三人の国造(くにのみやつこ)

古代、奈良には3人の国造がいました。

天理・桜井周辺を本拠としていた倭国造
葛城・金剛山の麓を中心に盤踞していた葛城国造
大和高原を支配していた闘鶏(つげ)国造

国造とは一般には在地有力豪族を差し、自立的だったそうです。
当時、福岡では筑紫国造磐井の乱などもありました。

 

国津神と国造

国造は国津神をお祀りします。
国造の多くはもともとの在地領主なので、地元の神様をお祀りしたようです。
大和高原闘鶏(つげ)は現在は奈良市都祁(つげ)地区を中心とした地域になります。

ここに国津神社があります。
御祭神は国津神の大国主命になります。
古代の奈良にも色んな事情が錯綜していたのでしょうか。

 

県主と天津神

一方、十市県主に代表される奈良の県主が存在します。
県主は朝廷の姓の一つであり、県主は朝廷に従順だったそうです。
そして、県主は天津神をお祀りしています。

しかし、十市県主の子孫今西啓仁氏曰く十市県主の神様は国津神の事代主命です。
ここにも一筋縄でいかない地域の事情が垣間見えるようです。

 

飛鳥から北上した奈良の都の歴史

飛鳥時代以降、大陸の文化を受け入れることで奈良は政権を確立していきます。
仏教文化を受け入れたい蘇我氏と日本古来の形を守りたい物部氏が激突します。

ここでも2つの勢力がぶつかっています。
奈良は古代は2つの勢力が常に牽制しあっていたのかもしれません。
その結果、大陸の文化を受け入れ、奈良は全国をリードしていったのでしょう。

 

都と「仏教」と奈良

平安京遷都の理由の一つに奈良の仏教の存在があったといわれています。
当時の仏教は国家鎮護という国家を守るための宗教行為を行っていました。

仏教は寺院の建設・維持費用がかかる上に、そこから上がる収入がありません。
一方で、奈良市役所にある平城京の模型を見ると寺院の大きさは目を見張ります。
その存在が時に国の経営を圧迫したのでしょうか。

都は京都に移りました。
都が京都に移ることによって奈良は寺院が大きな力を持つようになります。
ここで奈良は対京都ということで他地域を意識し始めたのでしょうか。

 

平安貴族と奈良の寺院

平安時代、奈良は藤原氏の氏寺興福寺が勢威を奮います。

時に朝廷が仏教勢力を疎かにしたのでしょうか。
興福寺の僧兵は春日大社の御神木を掲げて京都に強訴に向かいます。
当時、朝廷の貴族の多くは藤原氏で、その氏神が春日大社です。
春日大社の御神木が上洛すると、藤原一族は自宅謹慎になります。
朝廷の運営ができなくなります。

藤原氏が朝廷を動かしている時期は興福寺の力は強力だったでしょう。
その興福寺には全国に荘園がありました。
その荘園を預かる侍を衆徒(しゅうと)と呼びます。
奈良の在地領主の多くはこの興福寺の衆徒で、代表例は後の筒井順慶です。
寺院はその荘園を守るために僧兵を雇います。

その僧兵たちがやがては武装して時代をたくましく担っていきます。

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南都興福寺と比叡山延暦寺

平安時代、朝廷への僧兵と寺院の圧力に対抗するように武士が台頭します。
伊勢平氏(三重)と河内源氏(大阪東部)です。
朝廷は武士を使って、寺院の圧力を抑え朝廷の荘園を守ろうとします。

当時、興福寺は南都・比叡山延暦寺は北嶺と呼ばれて恐れられていました。
南都興福寺と比叡山延暦寺は朝廷を圧迫します。
それに対して朝廷に近い近畿に所領の多かった平氏が台頭します。
負けじと東国に多くの所領のあった源氏も台頭します。

源平は共に全国の開墾領主と朝廷の橋渡しを行いながら勢力を蓄えます。
その源氏は実は奈良にも存在し、大和源氏と呼ばれていました。
しかし、朝廷の権力争いの中で大和源氏は勢いを失います。

奈良はやはり興福寺衆徒が幅を利かせます。
奈良は興福寺に力を集めることでこの時代をリードしたといえるでしょう。
そして朝廷は平清盛が武士団の抗争に勝利し、朝廷の権力を掌握するようになります。

 

奈良は京の都に近すぎる場所

奈良は仏教国であり、武士団などが介入できない地です。
しかし、京の政権から見ると京の近く(奈良)に軍事勢力があるのは危険です。

奈良の都は大和国最北部にあり、京が近すぎます。
平氏と興福寺は何度も諍いを繰り返します。
そして平清盛は息子の平重衡に南都攻略を命じます。
平城山に陣取った興福寺衆徒に対して、平重衡は平城京の北側から奈良に乱入します。

興福寺衆徒は完全に裏をかかれました。
そして慌てて市街地に戻った興福寺衆徒と平重衡は今のJR奈良駅の北側でぶつかります。

この頃になると僧兵よりも、武士団の方が実戦経験があります。
正面ぶつかって奈良が勝てる相手ではありませんでした。
奈良の市街地はほとんど焼け野原、栄光の奈良の歴史に幕が灰燼に帰しました。
後に平重衡は源氏につかまり、奈良に引き渡され処刑されました。

それだけではなく、興福寺の保護で発達した能の中で平重衡は現れます。
その重衡は奈良を焼いたことを大いに苦悩し、反省します・・・。

ここに奈良の何かを感じます。

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源頼朝と奈良

その平氏も滅び、源氏の世の中になります。
源氏の長者源頼朝は相模国鎌倉(神奈川県)に幕府を開きました。
これにより東国政権ができます。

鎌倉から見た場合、奈良と京という地域が団結すると困るでしょう。
また畿内は近江・摂津などの強国も存在していました。
その上で、頼朝は奈良に力を入れて畿内に牽制を働かせようと目論んだのでしょう。

頼朝は奈良の復興に非常に尽力します。
畿内で幕府への反抗が起きても、奈良はその流れに参加しないだろう。

 

鎌倉政権と京都の朝廷が争った承久の乱と奈良

やがて承久の乱が起こります。
鎌倉幕府と京の後鳥羽上皇が戦います。

奈良はどうだったのでしょうか。

私は資料を持っていません。
承久の乱の後に、鎌倉幕府は全国に強力な権限を持ちます。
しかし、奈良への守護設置はその後の事になります。
奈良は承久の乱に組しなかったのでしょうか。
後鳥羽上皇も奈良に頼ってきていません。

頼朝の政策はその死後、承久の乱によって一つの成果を上げたといえるでしょう。

 

鎌倉末期・後醍醐天皇と護良親王と奈良

幕府の強権に対して対抗心を燃やした天皇がいました。

後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は京での抗争から奈良に逃れます。
この当時、全国は北条政権の下、強力な監視体制がありました。
しかし、奈良は寺院の力が非常に強く、一種の不介入の事情があったのでしょう。
後醍醐天皇は比叡山にこもると見せかけて京都奈良の境目の笠置山に立て籠もります。
その後、隠岐の島に流されますが、やがて再起します。

後醍醐天皇皇子護良親王。
護良親王は笠置山落城から間一髪で奈良の般若寺に逃れます。
やがて吉野を駆け回り、鎌倉幕府にゲリラ戦を展開します。
ちょうど河内国の楠木正成もおり、京都の六波羅探題を振り回します。

やがて播磨国赤松円心が京に突入。
足利尊氏の裏切りで関西は後醍醐天皇側となりました。
やがて関東も新田義貞等の力で幕府が滅びます。
奈良という地は北条政権にとって一種治外法権の地だったのでしょう。

そこに目を付けた後醍醐天皇・護良親王の視点はやはり鋭いですね。
奈良の地で回転の歴史を作り上げました。

北条氏の次に土地を持っていた足利尊氏

南北朝時代に入ると、奈良はそれまでの経緯から後醍醐天皇側(つまり南朝側)に多くはつきます。

しかし、この時代の癖として、兄弟親子にわかれ分裂しながら抗争が行われます。
南北朝時代は正規の武士はほとんど北朝につきます。
それはやはり南朝の親政には限界があったのでしょう。

北条に代わる存在として足利尊氏が京に室町幕府を作ります。
足利尊氏は鎌倉時代、北条に次いで所領があったと言われています。

多くの所領は巨大な軍隊を持つことができます。
その軍事力への信用が彼を日本の中心にしたのでしょう。

 

足利義満の南北朝合一と奈良の後南朝

紆余曲折の後、室町幕府三代将軍足利義満が出るにあたり南北朝は合一されました。
しかし、奈良ではその後も後南朝と呼ばれる一派が残ります。

すべてが無くなってしまわずにどこかに残っている。
奈良のやさしさなのでしょうか。

 

足利義満と興福寺の強訴

奈良はこの京を政権の中心にした幕府とはうまくいきませんでした。
興福寺が行った強訴は宇治川で足利義満の派遣した軍隊に蹴散らされます。
私はこの時に、奈良の人は団結して外に出ることに億劫になったのではないかと思っています。

京に政権ができたとき、その近くにある軍事力「奈良」は非常に危険視されます。
これは平清盛と平氏政権の時と同じですね。

 

応仁の乱と戦国時代

やがてそれを上回る全国規模の争乱が始まります。
応仁の乱です。
ここでは奈良の興福寺の荘園を預かっていた興福寺衆徒が自立しはじめます。
そして二手に分かれて抗争します。
さらには大和守護の畠山氏に家督争いが火薬庫となって全国に飛び火します。

この不安定な時代は信長の平定まで続くと言っても良いでしょう。

不思議ですね。

ここでも奈良は二つに分かれています。

 

戦国時代の奈良

戦国時代、畿内には2万人の傭兵がいたと言われています。
戦争がない時は、フリーターですね。
それでも2万人が畿内で食べていけた時代だったのでしょう。
奈良は何度も大坂方面から攻め込まれています。

この当時、京都の浄土真宗の蓮如上人が興福寺大乗院門跡の叔父経覚を頼ります。
浄土真宗は土地から上がる収入ではなく一人ひとりの寄付で成り立ちます。
当初、興福寺はそれを保護します。

しかし、浄土真宗は流行りの宗教で、瞬く間に奈良県一円に広がりました。
それまで、奈良には町と呼ばれる市街地を形成しているのは今の奈良旧市街のみでした。
しかし、浄土真宗の流行と共に、橿原・今井・大和高田・御所・下市・上市と町ができます。

すべて、浄土真宗のお寺を中心とした市街地になっていきます。
興福寺の奈良県支配から新しい宗教が入り込んできて、奈良は少し変わります。

その後、三好長慶から松永久秀、そして筒井順慶の支配に至って落ち着きます。

 

大坂政権と奈良

やがて豊臣秀吉の時代になると、奈良の多くの寺院は領地を削られて受難を迎えます。
秀吉は弟の秀長に和歌山・奈良・大阪東部を領有させました。
その圧倒的な力の中で奈良の寺院の力は決定的に削られました。
一部、秀長の美談も残っているようですが、江戸期に入るまで大仏殿の復興はできませんでした。

 

徳川政権と奈良

しかし、その受難を迎えた奈良の寺院には再び光が当たります。

徳川家康です。
徳川家康は大坂「豊臣政権」を打ち滅ぼし、江戸に幕府を構えます。
ここでまだ東国政権に至ります。
徳川家康は源頼朝の手法を学んだのでしょうか。
奈良の寺院を保護します。

また、京都には京都所司代を置いて朝廷などを監視しました。
また、家康は戦国時代に統一勢力を作った地域はなるべく分割統治をさせます。

岐阜県・新潟県・大分県・奈良県ですね。
そうすることで地域の力が一つにならないようにしたと言われています。
奈良も多くの大名に分割統治されました。
その上で徳川家康の方針として残っている奈良の話があります。

 

徳川家康が考えた奈良の活用

大和高取植村藩。
ここは徳川家譜代の植村家の2万3千石の小さな城下町です。
家康はここに豊臣政権を崩壊させた大砲を預けます。

関西に一大事があればこのように考えていたそうです。
植村が敵を奈良に引き付けて、彦根の井伊と伊賀の藤堂が京都を制圧する。

幕末、奈良で天誅組の変が起こります。
それは高取藩のこの大砲によって粉砕されました。

畿内を団結させずに、奈良を東国政権の影響下に置く。
そういう意味では奈良という地は東国政権にとっては都合のいい地域ですね。

京や大阪よりも歴史的名誉はありながら実際は経済力等は格段に弱い。
しかし、何か起こった際に京都や大阪と奈良は協力していないという形が生まれます。
やがてその流れは現代に繋がっていきます。

 

明治維新と奈良

明治維新。

奈良は廃仏毀釈で壊滅的な打撃を受けました。

そして堺県への合併。

奈良は地図上から消滅してしまいます。
それに対して、奈良県設置運動も広がりを見せます。
文化価値の再認識と共に、奈良県設置へと向かったのでしょうか。

また、奈良帝国ホテルが建設されたり、連隊が置かれます。
東京政府というのでしょうか。
その中で奈良も近代社会の様相を見せます。

軍隊の駐屯はならまち界隈の商売人の仕事を大きく発展させます。
今でもその時代の人がならまちの資産家です。

現代社会と奈良

戦後、日本は戦前にもまして中央集権を進めます。
そんな中央政権の中、奈良は独特の立ち位置を持ち始めます。

リニアと奈良

戦後社会は基本的に自民党政権ですね。
自民党は本部が東京にある東京政権です。
実は現役の閣僚や二世・三世のほとんどは東京育ちです。
今、奈良は京都とリニア誘致で競争しています。

 

荒井知事と奈良

奈良はもともと自民党参議院議員を務めた荒井正吾氏が知事を務めます。
荒井氏といえば、関西広域連合を頑なに拒んだ知事ですね。

大阪には維新の会が勢力を持っています。
東京の自民党政権から見ると、奈良の存在は程よい牽制役にはなるでしょうか。
歴史を眺めていると、地理的な制約や条件が変わらない以上同じ事態が回ってきます。

関西に一大勢力ができれば、そこと戦って劣勢となり、関東に政権ができればその与力となる。

以上、奈良に来て感じた奈良の歴史と立ち位置でした。

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