明智光秀が起こした本能寺の変の謎。
明智光秀の最期は本能寺の変後たった11日後です。
本能寺の変は明智光秀を操った秀吉の黒幕説もあります。
明智光秀と徳川家康が組んで本能寺の変を行った説もあります。
本能寺の変を起こした明智光秀はどのような状況にいたのでしょうか。
明智光秀の最後と死因と家紋や子孫・そして本能寺の変の謎と家康の存在について紹介します。
明智光秀の家紋は桔梗
明智光秀は最有力説では美濃(岐阜)の土岐源氏の出身です。
その一族で『明智』地域に住み着いた子孫が明智光秀のようです。
土岐氏は敵の大軍との戦いで団結して桔梗を兜にさして戦って大勝します。
そこから土岐氏は桔梗の家紋になります。
明智光秀の家紋も土岐一族なので桔梗です。
明智光秀の能力
明智光秀は浪人から身を興し40万石近い領地を織田信長から任されます。
また、明智光秀の領地だった地域では今でも明智光秀が大事にされています。
明智光秀はこの当時、最も能力の高い武将の1人だったでしょう。
織田信長は当初、明智光秀の宮廷外交能力を認めたといわれています。
その後、軍事や行政にも明智光秀は能力を発揮します。
明智光秀の能力は織田信長という主人を得て、いかんなく発揮されました。
織田信長がもっとも信用していた明智光秀
明智光秀は本能寺の変で織田信長を自害に追い込みます。
しかし織田信長は明智光秀を非常に信用していたといわれています。
織田信長の居城は近江安土。
その近江が所属する近畿地区の管轄を明智光秀に任せていました。
細川藤孝や高山右近・筒井順慶など近畿地区の武将も明智光秀の与力でした。
人は最も近くに信頼する人物を配置します。
また、明智光秀も織田信長を非常に尊敬していました。
本能寺の変の1年前に明智光秀は家来たちに織田信長の恩義を忘れないように説明しています。
織田信長が負傷してまでも明智光秀を助けた逸話
そんな織田信長は明智光秀を危機から救い出して負傷したことがありました。
大阪石山本願寺は突然織田信長に反旗を翻します。
その石山本願寺を包囲・監視するために明智光秀は四天王寺に砦を作ります。
その砦に本願寺が総力を挙げて襲ってきます。
それを聞いた織田信長は京から手勢を引き連れて救出に向かいます。
その際に太ももを鉄砲で撃たれて負傷します。
しかし、織田信長の救出で明智光秀は救われました。
明智光秀と本能寺の変の謎・・・明智光秀の重臣斎藤利三の能力と本能寺
明智光秀の重臣斎藤利三。
斎藤利三は美濃の頑固おやじ稲葉一鉄の家来でしたが退転し明智光秀に仕えます。
稲葉一鉄は斎藤利三を返すように何度も信長に訴えますが光秀は手放しません。
斎藤利三は軍事能力が非常に高く、明智の槍神と呼ばれていました。
本能寺の変の前に織田信長から斎藤利三切腹命令が出た説があります。
この斎藤利三の娘福は後に春日局となります。
明智光秀の本能寺の変・・・明智光秀と徳川家康の性格
明智光秀の性格は冷静沈着で穏やかだったといわれています。
また非常に部下想いで、本能寺の変の後も明智光秀は家臣の裏切りに遭いませんでした。
そして、本能寺の変の新説は明智光秀と徳川家康の合作です。
徳川家康の性格も明智光秀に似ているように思います。
この二人、織田信長最大のピンチだった金ヶ崎の退口でも助け合います。
明智光秀、徳川家康・豊臣秀吉は助け合いながらこの危機を脱出しました。
明智光秀と徳川家康には性格的なものなどで何か通じるものがあったのではないでしょうか。
明智光秀と本能寺の変の謎・・・織田信忠の能力と謎
織田信長の嫡男織田信忠。
織田信忠は信長から当主を継承し、武田討伐に臨み見事に討伐します。
この際、明智光秀は織田信忠を補佐しています。
この際に二人には何かがあったのではないかといわれています。
宿敵武田を直接指揮して破った信忠は意気軒高だったでしょう。
織田信忠という人は信長の子供の中では一番能力が高かったでしょう。
織田信忠は本能寺の変後に二条城に立て籠もって討ち死にします。
織田信忠と明智光秀は後に愛宕山で謎の密会をしていたそうです。
そして、織田信長にもある晩年の逸話があります。
明智光秀と本能寺の変の謎・・織田信長は糖尿病だった
織田信長はその晩年、糖尿病だったという話があります。
織田信長の死後、書かれた肖像画が残っています。
織田信長は糖尿病だったようで、晩年は病気がちで周囲が迷惑していた可能性があります。
息子の信忠に武田征伐を任せたのもそのあたりが理由かもしれません。
明智光秀の子孫の新説・・明智光秀と愛宕山で密会した織田信忠
明智光秀は本能寺の変の前に軍神を祀る愛宕山に登ります。
その愛宕山には実は織田信忠も登っていたという説があります。
これは明智光秀の子孫である某作家の方が発表した説ですね。
ここから考えると、本能寺の変は織田信忠によるクーデターという説が出てきます。
本能寺の変の謎・・明智光秀と徳川家康のその後
本能寺の変の際、徳川家康は50人の配下と堺を見学中でした。
この徳川家康には信長から殺害命令があったという説があります。
そして、徳川家康は実は理想的な逃避路で三河まで帰ります。
この俗にいう神君伊賀越えにも新説が最近ありました。
伊賀には明智光秀の娘が嫁いだ家があったそうです。
その家の主人が徳川家康の伊賀越えに協力したとか。
そのお礼の書状が見つかったそうです。
徳川家康は帰国後、旗幟不鮮明のまま三河から尾張へ出陣します。
京に向かっていたのでしょうか。
これは明智方への参加だったのか謎の行動です。
本能寺の変の謎・・明智光秀の死因の謎
明智光秀は本能寺の変の後、山崎の合戦に敗れます。
そして、京都山科小栗栖の藪で農民兵に槍でわき腹を突かれたそうです。
これが明智光秀の死因となったケガのようですね。
明智光秀の死因はわき腹の負傷による出血でした。
本能寺の変の後の謎・・徳川氏の内部にいる明智縁の人物たち
本能寺の変から20年以上後の話です。
徳川家康の側近に南光坊天海という人物がいます。
彼は明智光秀の一族だったという説があります。
天海が日光を作るにあたって作った地名は明智平。
この人物は明智と何か関係があったでしょう。
明智光秀重臣斎藤利三の娘福は春日局
明智光秀の重臣斎藤利三の娘は春日局になります。
徳川家光が後継者認定されたのは春日局による徳川家康への説得のお陰です。
天海と春日局。
この二人は江戸城で会見した際に、「お久しぶりだな」というような会話があった逸話があります。
ここはちょっと伝聞の域を出ないですね。
明智光秀の本能寺の変における謎はまだまだ簡単には真相に辿り着きそうにないですね。
しかし、いくらでも話が出てきますね。
いつか解明されるのではないかと思います。
明智光秀の子孫のお寺が岸和田にある
明智光秀の子孫とは明確に間違いなしと言える子孫はいるのでしょうか。
しかし、明智光秀の家臣の子孫という人は意外に多くいます。
坂本龍馬も伝承ではそういわれていますね。
明智の本拠の名前は阪本ですね。
大阪府岸和田には明智光秀の子孫のお寺が残っています。
明智光秀の最後と死因と家紋や子孫・本能寺の変の謎と家康について紹介しました。
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