地域活性局

藤丸正明

徳川家康が天下を取ることができた6つの理由


徳川家康といえば狸おやじですね。

2016-01-03 11.50.12

歴史上の人物の中で圧倒的に人気の悪い人物です。

大河ドラマ「真田丸」でもその印象そのままに描かれています。

しかし、私は家康という人物がとても好きです。
家康は現代人から見ると生き方が妥当なんですね。

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家康の天下を取れた要因を何点か紹介します。

1.部下にも敬称をつけていた。

家康は自分の部下にも必ず呼び捨てにしなかったそうです。
相手にも一定の尊厳を認める態度は多くの人の心をつなぎとめたでしょう。
人に気を配れる人だったようです。
ただし、戦場では気が立っていたような逸話が残っています

私が家康をお手本にしている例がこれです。会社のスタッフにも必ず敬称をつけています。

2.部下に大事にした。

家康はあの戦国時代に部下を手討ちしたりすることがありませんでした。

彼は自分の息子を亡くしています。
その原因になった事件がありました。
その原因の担当者は酒井忠次という筆頭家老でした。
普通、自分の息子を亡くせば、その事件にかかわった人間は優遇はしないでしょう。
しかし、家康は変わらずに重用しつづけました。

その後10年もした頃でしょうか。
酒井忠次は自分の息子家次を家康の元に連れて行きます。
その時、家康は初めて忠次に向って
「そちも息子の可愛さがわかったか」と穏やかに言ったといわれています。
家康は部下に対して非道なことをしなかったので、家来もはほとんどはむかったりしていません。

 3.幼年時から苦労している。

家康は小さい頃から非常に苦労をしています。
父を生まれてすぐになくし、母の実家の叔父に裏切られます。
息子は自身の手で殺さざるを得ませんでした。
その苦労が家康を大きく成長させました。
苦労した人なので人の気持ちがわかったのでしょう。

 4.健康医学の父

家康は健康医学が未発達の頃から、運動は身体によいと理解していた人物です。
鷹狩をして身体を疲れさせ、逆に旅行中は長く睡眠をとるなど、配慮を怠りませんでした。
それが彼の寿命を長くしました。
またその当時、梅毒という性病が流行っていました。
一般に遊女から感染するといわれていました。
気の荒い戦国大名は遊郭などでも遊んでいたのでしょう。
そこから多くの大名が感染していたといわれています。
しかし、家康はそれをなんとなく感じていたそうですね。
一切、遊女は近づけなかったといわれています。
その結果、家康は多くの子供を作ることができています。
子供は将来の戦力ですね。

 5.学習能力の高さ

家康の前半生は戦国一の強敵、武田信玄との戦いでした。
こんな不運はありません。
しかし、その戦国一の強敵、信玄から学ぶ努力を怠りませんでした。
信玄は政治から戦争まで何でもこなす人物でした。
家康は信玄から戦争・政治まで学び続け総合力の高い人物になりました。

戦国大名は一般的に政治・戦闘・智謀・采配・野心などで評価されるでしょう。
信玄はどれをとっても100点満点のうち90点を越えていたでしょう。
家康も80点はとれていたのではないでしょうか。

 6.組織の妥当な成長力。

1564年、18歳で今川家から独立しました。約12万石。
1566年、22歳で三河統一。約35万石の身代になります。
1568年、24歳で遠江平定、約55万石の身代になります。
1582年、38歳にして駿河国平定、約90万石にまで登ります。
そこで本能寺の変が起こります。
その後、1年程度で甲斐と南信濃・北信濃の一部を手に入れます。
約150万石の身代になります。
1590年、小田原北条氏の後を受け、250万石の身代になります。

諸説ありますが、この時点で領地だけで言えば豊臣家を越えた最大の大名になっています。

最後はこの250万石の身代を持って関ヶ原の戦いに勝利し、日本の大半を手に入れました。
1614年、家康72歳で豊臣家を滅ぼして天下統一しました。

12万石(18歳)
35万石(22歳)
55万石(24歳)
90万石(38歳)
150万石(39歳)
250万石(46歳)
56歳で関ヶ原の戦いに勝利。

織田信長は15万石程度の身代から33年かけて500万石近くまで登りました。
徳川の2倍近いスピードになります。
豊臣秀吉は1代で草履取りから天下を取りました。
ゼロからマックスまで秀吉は行ってしまいました。
家康は72歳で豊臣家を滅ぼして天下統一しています。

戦国三英傑の中で組織の成長率が一番妥当ですね。

その組織に所属している人間からいうと組織の成長率は非常に重要です。
ついていけるスピードだったことは徳川家の成長にとてもよかったでしょう。

家康は多くの要因があって天下人になっています。
運や才能があったことは間違いないとは思います。
しかしそれ以上に私は突き詰めればこのあたりが要因だったのではないかと思います。

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私が最も家康が好きなところを紹介します。

彼は晩年には狸おやじと言われるようになります。
しかし、彼はずっと周囲には頼もしい律儀な人でした。

信長と朝倉義景を攻めた際に、浅井長政の裏切りに遭い危機に陥りました。
この時、織田信長は敦賀にいたのですが真っ先に京都に逃げました。

そして、織田軍の退却時に、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)は殿軍を申し出ました。
殿軍とは、‘しんがり’と呼び、軍隊の最後尾を守り、相手と戦いながら退却します。

‘しんがり’とは大変難しいもので、戦って退却して戦って退却します。
相手は追手ですね、逃げる方と追う方では心理が違います。

そして秀吉は金ヶ崎城というお城に籠り、味方の退却を手助けします。
この時、織田軍の中では秀吉と一緒に戦う人がいませんでした。

しかし、徳川家康は、ここは秀吉を救わなければならないと決心しました。
そして、共に力を合わせて‘しんがり’を努めます。

そしてここにもう一つの奇跡が起こります。
織田軍は一番最後の部隊が明智光秀隊だったのですね。
この当時、信長を除いて、この3人は武将として能力が最も高かったでしょう。

家康は自分も危機に陥りながらも人を助けました。

後に、秀吉と家康が小牧長久手の戦いの後に講和した際
秀吉は家康に以下の話を行ったといわれています。
「金ヶ崎城では徳川殿に助けられたことは忘れていない」

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さらに、その後、姉川の戦いという戦いがありました。
姉川の戦いでは織田軍・徳川軍VS浅井・朝倉の戦いでした。
織田軍は約23,000- 徳川軍は約5,000- 浅井約5,000- 朝倉軍8,000-

常識に考えれば、織田軍が朝倉にあたるのが妥当です。
しかし信長は家康の持つ三河軍団の強さを利用しようとしました。

徳川5,000-が朝倉8,000-と戦います。
織田も徳川も浅井・朝倉に圧倒されます。
しかし、家康は十分に凌ぎ、やがて朝倉軍に打ち勝ちました。
その瞬間に信長も予備兵を投入する事で浅井軍に勝利しました。

家康は自分が大変な環境にいても、味方を助ける努力をする人でした。

いかがでしたか。
以上、徳川家康が天下を取った6つの理由と、私が好きな家康でした。

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