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亡くなった友人の思い出

プライベート

亡くなった友人の思い出

高校2年生で同じクラスになった友人がいました。
偶然にも私と同じ左利きのでした。
当時、何人かで集まって野球をやっていました。

携帯 786

高校3年生に上がって、彼はまり学校に来なくなりました。

私は毎日規則正しく学校に行っていませんでした。
卒業に必要なだけ登校し、あとは好きなことをした方が良いと思っていました。

しかし、友人が学校に来なくなっているを心配していました。
それから、その友人が学校に来るとよく話をするようになりました。
5・6月はそれなりに登校していたのですが、7月にはまた来なくなりました。

 その頃、私は担任の先生から呼ばれました。
「彼がまた学校に来るようになんとかしてくれ」と。

今思えば不思議なことなのですが、こういったことを昔はよく頼まれていました。

 それから、7月の夏休みまでの何度か、朝に迎えに行きました。
彼は周囲には友人もいました。

しかし、あまり自分の気持ちなどは話していないようでした。
その頃から、彼が家のことや友達のことなど話してくれるようになりました。

 そして、ある約束をしました。

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 私は当時から旅に出るのが好きでした。
実家の手伝いをしていた関係で月に約5-7万円の収入がありました。
なので、休みがあると京都に行ったり、2年生の夏にはパリに遊びに行きました。

 

夏休みは一緒に貧乏旅行に行こう

夏休みになったら一緒に貧乏旅行をする。
そう、友人と約束しました。
私は、知り合いなどに何かあると外に連れ出します。

気分転換が人を楽にすると思っています。

そして、7月最後の登校日、彼は学校に来ました。
この時、ちょっと気持ちが近づいた気がしました。

 そして、夏の貧乏旅行は1週間行きました。
行先は熊本です。

まずは、実家の付き合いのある熊本大津町の陶芸家の家に3日泊まりました。
ちょうど甲子園の頃でした。

陶芸家の家は熊本でも指折りの地方豪族の分家の家で大きな家です。
いろんな人が集まります。

大津町には大津高校という甲子園やサッカーでもよく出てくる高校があります。

その高校の物理の先生が、昼過ぎに学校の仕事終えて遊びに来ます。

陶芸は夏の昼間は暑すぎてやってられないんですね。

昼は大抵素麺を食べました。

その後は縁側で蚊取り線香の香りを嗅ぎながら、トランプを楽しみました。

夕方は白川という川の堤まで行き、石を投げて遊んでいました。
そこから、阿蘇の外輪山が見えるんですね。

そして、夜は陶芸をします。

いくつか自分の器を作りました。
葉っぱを取ってきて文様になるように粘土にくっつけました。

そして4・5時ごろ寝ます。昼にはまた物理の先生の声で起きていました。

陶芸家の家には可愛いネコがいました。
ミーちゃんというネコでした。
ちょっとお腹がすいた時に縁側の下から出てきてニャーニャー言います。
あまり可愛がりすぎると怒って逃げて行きました。

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陶芸家の家を後にして、鈍行に乗って次の目的地に行きました。

熊本県球磨郡湯前町。

湯前は私の祖父の姉が嫁いだ家がありました。
厳密にいうと、元々筑後の現在のうきは市の家でした。
戦後開拓団として人吉の奥の湯前に入植していました。

その後、その家は子供に恵まれ多くの親族を形成しています。

その湯前の家に泊まりに行きました。

ここでも3泊しました。

湯前には、はとこの兄さんがいました。
休みの日には宮崎県椎葉村に車で連れて行ってくれました。

また、湯前の家のすぐ裏にはあの雄大な球磨川が流れています。
近くのお店でゴムボート(1980円)を購入し、二人で川で遊びました。
そうすると、近くの子供たちが寄ってくるんですね。

隣村の畳屋さんの息子さんと仲良くなりました。
たしかまだ小学校5年生ぐらいだったと思います。
4名ぐらいの子供たちだったのを覚えています。
その中に小学校2年生ぐらいの女の子がいました。
目がとてもキラキラしていたのを覚えてます。

畳屋さんの息子さんが川の対岸を指さし、
「僕の家は向こうだから夜遊びに来てよ」。

夜20時に彼の家に二人で遊びに行きました。
中学生のお姉さんがいました。

「お兄ちゃんかな??」

言葉には気をつけないといけないですね。
そのお姉さんは苦笑いでしたが、あー言ってしまったなぁと思っています。

それからまた鈍行に乗って、半日かけて太宰府に帰りました。

 

二人のその後

その後、彼も学校にしっかり来るようになり、一緒に卒業できました。

卒業後、彼は就職も進学もせずに、宅急便屋でアルバイトを始めました。
私は専門学校に行くために大坂に行きました。

その後、その年の冬に一度会いました。
宅急便で正社員になるんだと言っていました。
何か自分に言い聞かせているようでした。

彼は元々は大野城という町に住んでいました。

その時は太宰府に引っ越していました。
夕方彼の下宿先に遊びに行きました。

11時半ぐらいまで色々と話したのを覚えています。

私自身がその後、人生の変遷がかなりあり、その友人を忘れていました。

その4年後ぐらいから、彼が良く夢に出てくるようになりました。
彼の実家は4階建てぐらいのマンションでした。

そのマンションの上からぼーっとマンションの下にいる私を見ているという夢です。

1度や2度ではなく、本当に何度も夢を見ました。
そして、彼の携帯は解約されていました。
その連絡もなかったため、何かあったんだろうなとは思っていました。

私はちょうど、今の会社の前身である有志団体での活動を開始していました。

忙しかったんですね。ちょっと気になってもすぐに忘れてしまいました。

それからさらに1年後ぐらいに、高校の同じクラスの友達から連絡がありました。

彼が飛び降り自殺をしたと。

その友人と定期的に会うことができていれば、自殺まではなかったのではないかと思います。

今、熊本が震災に遭っています。

大津の陶芸家の家は半壊していると聞いています。

自分の大事な思い出が壊れていくようでとても悲壮感を持っています。

そして改めて思うのは、人を大事にしたいと。

5月には大津の陶芸家の家に行きたいなと思っています。

地域にとっても人は大事です。若者はその中でも最も大事な世代だと思います。

亡くなった友人の話でした。

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