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麒麟がくる8回の解説・・信秀の苦労が活きた信長の天下統一の秘訣

麒麟がくる

出来星大名の織田信秀と斎藤道三。
まさに下剋上が完成しようとしていた矢先にお互いに危機が訪れます。
そこに1人の希望『織田信長』がいます。
信秀の嫡男で、斎藤道三の義理の息子。
織田信長がこの幼少期に見た二人の苦労。
それが後の天下統一への秘訣となっていきます。

麒麟がくる8回の解説・信秀の苦労が活きた信長の天下統一の秘訣を紹介します。

 

麒麟がくるの解説8回・出来星大名の挫折は外征に始まる

戦国時代を代表する二人の出来星大名・斎藤道三と織田信秀。
共に国内の敵対勢力をすべて従属させることに成功します。
一見、その地域を支配したように見えます。
しかし、この時代はそう簡単な事情で世の中は回っていませんでした。

それが露呈するのが、国内から外に戦争に行く外征です。
国内勢力をすべて連れて出陣するというのが一般的な印象です。
しかし、出来星大名に従属した豪族は外征には行きたくありません。
そんな消極的な豪族には利益(金銭や土地)で釣ろうとします。

そんな利益でも連れない場合があります。
それは勝つ見込みを感じない時などです。

そういう時は、豪族たちは理由を構えて出陣しません。

それが物語るのが、斎藤道三と織田信秀の前後の戦争の動員兵力です。

第2回での合戦で紹介します。

美濃国・・40万石 動員可能兵力(200名/石)・・8000名
道三の動員兵力 4000名
尾張国・・45万石 動員可能兵力(200名/石)・・9000名
織田信秀の動員兵力20000名

美濃国の動員可能兵力は約8000名に対して斎藤道三の兵力は4000名。
尾張国の動員可能兵力は約9000名に対して織田信秀の兵力は20000名。

これはどういうことなのでしょうか。
この理由は当時の旗頭という仕組みにあったでしょう。

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麒麟がくる8回の解説・・旗頭という慣習

日本の歴史においては、領主というのは絶対ではありません。
例えば、尾張守護職の斯波氏は家来はすべて自前ではありません。
斯波氏が室町幕府から尾張守護職として認定されて、尾張に赴任します。
その際に、尾張国の有力者たちは斯波氏の支配下には入ります。
しかし、それは土地迄すべて支配されるわけではないのですね。
あくまでも従うというだけの話になります。
そして室町幕府から斯波氏に出陣の命令が出れば、尾張国の有力者たちは斯波氏を旗頭に出陣します。
旗頭は時に、その従属した有力者たちの反抗を受けたりします。

地域の有力者にとってはあくまでも旗頭に過ぎないわけです。

そんな時代の中で、その有力者の中の一人が守護職など幕府公認の大名に下剋上します。
その有力者は国内では無双であっても、国外に出る際にはやはり同じように旗頭の存在になります。
守護職が相手でもいうことを聞きにくい有力者たちが、出来星大名のいうことは聞きません。

麒麟がくるの中でも斎藤道三や織田信秀は人望がないというセリフが何度も出てきます。
しかし、実際は、この慣習で社会が動いているので、人望ではなく制度の問題です。
この課題は織田信長という人物によって解決されていきます。

麒麟がくる8回の解説・・織田信秀が使った魔法

出は先ほどの話に戻ります。

美濃国の動員可能兵力は約8000名に対して斎藤道三の兵力は4000名。
尾張国の動員可能兵力は約9000名に対して織田信秀の兵力は20000名。

人望のない斎藤道三は美濃国の動員可能兵力の半分しか兵隊が集まりません。
しかし、織田信秀は尾張国の動員可能兵力の2倍以上を集めています。

織田信秀は一体どうやってこの兵力を集めたのでしょうか。

それは織田家が得意としていた銭で雇った傭兵たちだったでしょう。
後に豊臣秀吉の家来となって阿波徳島藩となる蜂須賀氏。
この蜂須賀氏は木曽川流域に勢力のあった川並衆の一つの勢力です。
この当時、米の支配に頼らず流通や金銭による行動をする商人等が時代を動かしつつあります。
なかでも、尾張国は東国と畿内の中間地点として多くの流通で賑わっていました。

そして、麒麟がくるでも取り上げられている熱田と津島という尾張の二大貿易港を織田氏は抑えています。
織田家は米の支配と共に、この金銭の流れをしっかりと把握して時に大胆に利用しています。

織田信秀のこの時の動員力はせいぜい5000名程度だったでしょう。
信秀はこの戦争の際に、絶好機とみてお金で兵力を集めました。

しかし、お金で雇われた傭兵集団は勢いがある時しか活躍しません。
なぜなら、戦う相手は自分の領土を背負ってきている武士たちです。
土地に縛られた武士は、その土地を守るために『一所懸命』です。
親の屍を超えて子が戦い続けます。

信秀は道三の罠にはまって敗退しました。

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麒麟がくる8回の解説・・・道三と信秀の苦労を活かした織田信長の天下統一

傭兵集団は戦争に弱く、有力者たちはピンチでは出陣に協力しない。
こんな苦労を斎藤道三と織田信秀は繰り返していました。

そこに登場する織田信長。

信長は当初、有力者たちとも手を携えていました。
しかし、その限界を何度も感じます。

そんな織田信長は取ったのは徹頭徹尾傭兵集団の活用でした。
そして、その弱点である戦争に弱いことをカバーします。
それが相手の何倍も兵力を集めることでした。

一見常識のようですが、日本人のほとんどは武力とは寡兵で大兵力を破ることだと思っています。
信長は政治・政略・外交の限りを尽くして、敵対勢力の兵力を減らします。
そして、自らの大兵力で機を見て攻めかかります。

当時、畿内でも最も武略に優れていた六角義賢などは後にその戦い方になすすべなく敗退します。

織田信秀の後半生は酷く衰勢でした。
それは同時にそのあとを継いだ信長の前半生を苦労の連続にしました。
しかし、その苦労の連続の中で、信長は工夫し、生き残りに成功します。

その工夫が結局は大勢力を作る形となります。
信長は桶狭間の戦いの後は、一度も領土を減らさずに増やしていきました。

麒麟がくる8回の解説・・信秀の苦労が活きた織田信長の天下統一の秘訣を紹介しました。

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