1591年4月21日。
千利休は最後の時を迎えます。
一切の言い訳もしない一人の茶人。
しかし、利休は最後に一本の茶杓を作って社会に残しました。
千利休の死因と最後について思うことを書きます。
表千家に伝わる千利休の甲冑
茶道表千家は千利休の血脈を今に伝える家です。
その表千家には千利休の残したといわれる甲冑が残っています。
甲冑から推測できることは、武人としての側面を持っていたということ。
また、身長が180㎝メートルあまりあったということ。
身体の大きな千利休は、若き頃は戦場を駆け回っていたのかもしれません。
実際に、当時、畿内には2万人の傭兵がいたといわれています。
三好長慶・実休兄弟・松永弾正、織田信長や細川幽斎・明智光秀を見てきた千利休。
そこには時代の切り抜けてきた、時代を主導してきた魅力や力強さがあったでしょう。
豊臣秀吉の優秀な側近たち
織田信長の勃興に合わせて大出世を遂げる豊臣秀吉。
本能寺の変で織田信長が横死したのち、駆け上がるように天下を統一しました。
そんな豊臣秀吉の出世街道を支えた人物たちがいます。
豊臣小一郎秀長 秀吉の弟
蜂須賀小六 調略に長けた尾張の土豪(盗賊伝説あり)
竹中半兵衛重治 18歳で稲葉山城を乗っ取った知恵者
黒田官兵衛孝高 播州姫路の豪族で後に天下の軍師といわれる
杉原家次 秀吉の妻寧々の母の兄
親族の長、杉原家次は留守居役で安定剤。
残りの4名は不敗の戦歴を誇る政治・軍事・外交・政務までこなす人物です。
秀吉が大出世できたのはこの人たちに負うところが大きいです。
その人物たちには本能寺の変後にさらに2名の人物が加わります。
千利休・蒲生氏郷です。
千利休という人の存在感
千利休という人は、堺で生まれ、若き頃は奈良に通っていたようですね。
そして大坂で大阪城で秀吉に近侍し、京の都で茶の湯を大成します。
千利休は畿内に精通する人物です。
畿内とは今の大阪・京都・奈良のほぼ三府県を指します。
当時、日本を代表する商業都市の堺・京・奈良が存在します。
ここでは朝廷・公家・商人・寺社が複雑な権力構造を有しています。
秀吉が山崎の合戦以降、畿内中枢を領有するにあたり畿内の情報が必要になります。
そこで現れたのが千利休でした。
利休という交流を担う茶人を通して秀吉はぐっと存在感を増していきます。
豊後の大名、大友宗麟が大坂城に秀吉の助力を乞いに来ます。
その際に、秀吉の弟の小一郎秀長がこんなことを宗麟に伝えています。
「うちうちのことはこの小一郎に、外のことは利休に」と。
利休という人が複雑な畿内で外交力を発揮していたことがよくわかります。
優秀な側近たちの逝去と隠居
そんな豊臣政権ですが、暗雲が立ち込め始めます。
完璧といえるような側近たちですが、秀吉ほど長生きはできませんでした。
竹中半兵衛重治 逝去 1579年7月6日
-本能寺の変- 1582年6月21日
-山崎の合戦- 1582年7月2日
-賤ヶ岳の合戦- 1583年4月20-21日
-小牧長久手の合戦- 1584年3-11月
-紀伊平定- 1585年3-4月
-四国平定- 1585年6-8月
-越中平定- 1585年8月
蜂須賀小六正勝 逝去 1586年7月8日
-九州平定- 1587年
豊臣小一郎秀長 病気 1589年2月を最後に病状が悪化し出仕をやめる。
黒田官兵衛孝高 隠居 1589年5月隠居を届け出る
-小田原平定- 1590年2-7月
-奥州平定- 1590年7-8月
豊臣小一郎秀長死去 1591年2月15日
千利休 切腹 1591年4月21日
秀吉の創業期を支えた多くの人物は小田原平定までに姿を消します。
千利休は1582年の本能寺の変以後の側近でしょう。
それから切腹まで、実はたったの9年しかありません。
そして、千利休という人は、その創業期の誰よりも年上でした。
秀吉という人が天下統一という階段を駆け上がっていく。
その途中で優秀な人物が回りから去っていきます。
そして、最後まで生き残ってしまったのが千利休でした。
豊臣秀吉という人は小田原平定後、何かおかしくなった感があります。
朝鮮出兵・甥の切腹、そして死去。
先の大河ドラマ「真田丸」でもそのような描写が多かったですね。
千利休が見た信長の晩年と秀吉
千利休は、秀吉の慢心と創業期の側近の死の連続を見て何を感じたのか。
ここからは私の拙い想像です。
大徳寺に、ある肖像画が残っています。
http://sengoku-walker.blog.jp/archives/51855680.html
豊臣秀吉が信長の葬儀に合わせて描かせたという信長の肖像画です。
その肖像画はネット検索すればすぐに出てきます。
信長という人は晩年、糖尿病を患っていたという話があります。
側近の日記の記録からもそれが読み取れます。
糖尿病神経障害を合併していたという話があります。
https://www.club-dm.jp/novocare_circle/celebrity/celebrity6.html
時代を駆け上がった信長も体力の衰えと共に判断能力が鈍っていたのでしょう。
晩年は周囲を振り回したのでしょうか。
(私は本能寺の変の核心は実はここにあると思っています)
秀吉はそれをあえて葬儀で見せようとしたのでしょう。
これはもしかすると千利休も関係していたのではないか。
1582年7月2日。
山崎の合戦に勝利した秀吉のために、千利休は待庵という茶室を設けています。
そこから、千利休は秀吉の外交指南役として畿内で重きをなしたでしょう。
織田信長とも関係していた千利休。
その千利休は、おそらく、信長の晩年も冷静に見ていたでしょう。
ダンディーで豪勢な信長。
豪華絢爛を喜ぶ秀吉。
千利休という人はそれをどう見ていたのでしょうか。
千利休の死因と最後の心境を紹介します。
千利休の死因と最後の心境
千利休は極めて機械的にまで秩序のある堺の生まれです。
日の出と共に置き、日中は一生懸命働き、夜は一日を感謝し就寝する。
堺の町は夜になればどんな権力者にも扉を開けなかったといわれています。
そんな堺衆の一人が千利休です。
信長・秀吉の晩年を見ながら、自らは禅と道の精神にて自律を進めていく。
足るを知り、驕りを戒め、自らを律する。
優秀な戦国武将の中にはそんな千利休の姿に感動した人物は多かったでしょう。
さらに、創業期の側近たちが亡くなっていく事情。
その中で、千利休を頼りたい人物も非常に多かったのではないでしょうか。
それが権力者秀吉から見れば、また目障りだったのでしょう。
利休から見ると、天下人豊臣秀吉はもう魅力がなくなっていたでしょう。
秀吉は言いがかりのように千利休に切腹を命じます。
それに対して千利休の最後は言い訳などをしなかったといわれています。
武者小路千家後継の千宗屋氏は、千利休の最後に関してこのようなことを言われています。
千利休の最後は、70歳を迎えて、少し投げやりなところがあったようだ。と。
千利休の死因は、創業期側近たちを失った秀吉の慢心だと言えるでしょう。
千利休の死因と最後の心境について思うことを書きました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。