地域活性局

藤丸正明

大河ドラマ 真田丸 大谷吉継について


豊臣と徳川の戦い小牧長久手の戦いは徳川の局地的勝利に終わり、その後も緊張感の漂う東海地方。

2016-04-01 12.01.57

真田昌幸は豊臣と徳川を天秤にかけ、豊臣につきながらも徳川の将来性も感じて、せっせと関係強化を行いました。

長男信幸には徳川家重臣の本多忠勝の娘を家康の養女として迎えます。
次男信繁(幸村)の妻は豊臣秀吉側近の大谷形部吉継の娘を迎えます。

どちらが勝っても生き残れる。
それが昌幸の真田家の家名保存の戦略でした。

結果は長男が生き残ることで真田が残ります。

さて、信繁の義父大谷吉継を紹介します。

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大谷吉継は父の代に豊後から流れてきたという伝承があります。
実は本多忠勝の先祖も豊後から流れてきたといわれています。

そして長浜時代に小姓として秀吉に仕えたそうですね。
幼名は紀之介といいました。

秀吉は長浜13万石を信長から拝領しました。
その時、それまではほとんど直属の家来がいなかったため、大量に雇用しました。
後に著名になる石田三成や福島正則・加藤清正なども同時代に小姓などをやっていたメンバーです。

彼の活躍は豊臣秀吉が信長の後継者レースにおいて柴田勝家を滅亡させる賤ヶ岳の戦いにおいて現れます。

柴田勝家には勝豊という甥がいました。
勝家は彼を養子にしていましたが、別の養子を重要するようになっていました。

そして、秀吉が本能寺の変の後に、明智光秀を討ちます。
その後、信長亡き後の織田家について話し合う清州会議が行われます。

そこで、領土の保有に関する交渉があります。
明智光秀を討った秀吉は近畿に大部分の領地を確保していました。
それに対して勝家は秀吉の出世城、長浜城と北近江を勝家に譲ることを求めます。

それに対して、秀吉は勝家と不和である勝豊であれば譲るといいました。
秀吉は勝家と勝豊の不和を見越していずれは寝返る可能性のある勝豊に恩を売ることを選択します。

その冬にはもう賤ヶ岳の戦いが始まります。
秀吉は柴田勝家を北陸から関西に一歩もいれないために、戦う前に勝豊がもつ長浜城を調略によって味方につけようとします。

そこで活躍したのが大谷吉継でした。
彼は長浜城に乗りこみ、勝豊を説得し降伏させます。

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勝豊からしても勝家と不和のため柴田が勝利しても自分の立場は弱く、そして冬には柴田の本拠地福井が雪に閉ざされるため援軍もない。

吉継は見事役目を果たしました。

吉継は福島正則や加藤清正といった豊臣政権の武断派とも仲が良く、そして自らは石田三成等の文官派に所属していました。

中でも石田三成とは非常に仲が良かったため、関ケ原では負けると予想しながらも友人の三成のために戦死しました。

この時代、友情というようなものはなかったといわれています。
しかし、作家の司馬遼太郎さんはこの2名の関係はまさに友情があったと断定しています。

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関ヶ原の戦いにおいて、大谷家は大名の地位を失ってしまいます。
吉継の息子吉治は諸国放浪後、大坂の陣では大阪城に入場します。

大坂の陣では100名の兵隊の部隊を任されました。
そして義父の真田信繁と共に夏の陣にて戦死します。
大谷家は後に夏の陣で戦った越前藩に一族から出仕したものがいたようです。

大谷吉継は逸話の残っている人ですね。

逸話については改めて書きます。

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