地域活性局

藤丸正明

真田丸の登場人物 石田三成について


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第15話まで進んだ真田丸。

これからしばらくキーになる人物に石田三成がいます。

石田三成は滋賀県北部の長浜市にほど近い在所の小豪族の次男です。

この時代、国人と呼ばれ、小さな在地領主が地域を支配していました。
その国人は一般的には名簿を大名に渡して、自分の地域の支配を認めてもらいます。
その代りに、戦争時には軍役として兵隊を率いて戦場に行きます。

三成には有名な逸話があります。
彼は小さいころお寺に預けられていました。

当時羽柴秀吉と名乗っていた豊臣秀吉がそのお寺に休憩に来ます。

秀吉からお茶を所望された三成は、始めは熱いお茶を少量差し上げます。
もう一度所望されたので、三成は今度は少し熱さを抑えて多い量のお茶を差し上げたそうです。

のどの渇きを熱いお茶で潤し、次に量を飲ませる。

彼と秀吉の出会いと、彼の知恵の深さを表すエピソードです。

さて、豊臣秀吉政権の中で石田三成の立ち位置です。

現代社会でいえば社長室長・秘書課長か若しくは官房長官でした。

全国の諸大名は秀吉に合う場合には三成を取次にしなければなりません。

彼の権勢は日に日に増していきます。

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しかし、そんな彼にもその権勢に限りが見えます。

それが秀吉の死でした。

豊臣政権は当時、朝鮮出兵という課題を背負っていました。

豊臣政権にとって朝鮮出兵というのは大きな問題となっていました。

秀吉の死と共に、統率者がいなくなりました。
三成は出兵した諸将と兵隊の引き上げにかかりました。

この朝鮮出兵は多くの波乱を巻き起こしました。

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三成をはじめとした文官派は当初から出兵には反対でした。

一方で、加藤清正をはじめとする武闘派は出兵では積極的に動きました。

秀吉は当時既に判断力に陰りが出てきていました。

三成派は小西行長を中心に朝鮮と講和に進みました。

しかし、それを知らない加藤清正は戦果を拡大させました。

そして、三成は講和を進めるために清正を日本に返そうとします。

そこで加藤清正は先鋒を解任されて大坂に戻ってきます。

彼はここで決定的に三成に対して怨みを持つようになりました。

朝鮮出兵から引き揚げ後、徳川家康が暗躍し始めます。

彼は文官派と武闘派に分かれた豊臣家子飼いの武将を懐柔し始めます。

家康は三成が人望がないところに目をつけます。

そして三成憎しの加藤清正を始めとする武闘派を抱き込みます。

そして関ケ原の戦いに至りました。

石田三成は西軍・徳川家康は東軍です。

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関ヶ原の戦いでは、三成に味方をしたのは秀吉から討伐され臣従した大名が中心でした。
毛利輝元・宇喜多秀家・長曾我部盛親・上杉景勝・島津義弘などですね。

秀吉子飼いの文官派の増田長盛や長束正家などは家康側にも密かに通じていました。

秀吉の一族では、小早川秀秋が西軍から東軍へ寝返りました。

関ケ原の戦いで西軍で奮戦したのは石田三成・宇喜多秀家・大谷吉継ぐらいでした。

毛利家は最後まで「いるだけ」という状況を作りました。

そのせいで長曾我部盛親は戦場に出らませんでした。

家康による調略が進んでいたのですね。

関ヶ原の戦いは政略により東軍が勝ったといわれています。

政略とはこの場合、要するに調略などによる裏切り工作ですね。

徳川方には細川忠興・黒田長政・藤堂高虎のような調略ができる武将が多くいました。

三成は負けて、捕えられて処刑されます。

関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わりました。

しかし、三成の本軍約6000は最後まで善戦しました。

彼は常に質素に暮らし領民をいたわりました。

今でもその話は旧石田領の滋賀県北部に残っています。

関ヶ原の戦いの後に彼をかくまった領民の話・
彼の家臣、島左近勝猛の話・
三成の発明の話・
秀吉から100万石を与えられそうになり断った話・
彼の遺体から彼の身長などが判明した話・

など話題に事欠きません。

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それは次の石田三成の逸話で紹介します。

石田三成は日本全土を巻き込んだ挑戦を行いました。
その結果は彼の惨敗に終わります。

しかし、彼が大事にした彼の領地では彼の遺徳を偲ぶ行事が絶えません。

そして、彼の居城佐和山城跡は彼を慕う歴史ファンが多く登山しています。

地域に大きな名前を残した人物ですね。

私は彼がとても好きです。

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