日本各地には古い町並みの残る町が多く存在します。
奈良や京都を除けば、その大部分は江戸期に作られた町ですね。
今にも残る町並みは実は徳川家康の方針の下で成り立ちました。
ちょっと長くなりますが面白い地域の話です。
戦国時代の地域性と兵隊の強さ
戦国時代、地域によって兵隊の強さに違いがあったといわれています。
当時、最強とうたわれた地域があります。
越後(新潟)・甲斐(山梨)・信濃(長野)・土佐(高知)・肥後(熊本)・薩摩・大隅(鹿児島)などです。
家康はこの地域にはかなり注意を払いました。
家康の発想は以下のようだったといわれています。
「戦国時代に英雄を輩出した地域には英雄を輩出する地域性がある」。
これを厳密に家康がいったかはわかりません。
しかし、有力な戦国大名の輩出地域には細やかな配置をしています。
家康は地域を分割統治させることで力が一つになることを防ぎました。
例として何ヵ国か提示します。
豊後国の場合
大分県の大部分になる豊後国は戦国大名大友宗麟を輩出しました。
大友宗麟は全盛期、九州6か国を領有しました。
有力大名を輩出したということでかなり細分化した分割統治を行っています。
おおよそ10の藩に分割しました。
織美濃国の場合
美濃(岐阜南部)は斎藤道三を輩出し織田信長の功業の中心地になりました。
美濃国だけで17の藩に分割しました。
越後国の場合
上杉謙信を輩出した越後(新潟)は15の藩に分割しました。
そして、信長・秀吉を輩出した尾張国(愛知県西部)には一門の尾張徳川家を置きます。
各国の力の集中を分散させた
このような形で、家康はその国・国の力の集中にとても気を配りました。
その結果、その国の物資が1か所に集まらないようになりました。
1つの国で1人の領主であれば、税金は1つの城(都市)に集まります。
一方で1つの国で10人の領主であれば、税金は10ヵ所に集まります。
10ヵ所よりも1ヵ所の方が効率はいいですね。
領主のお城には士族やその御用をする商人たちが集まり町が形成されます。
経済は背景となる人口規模により変わりますね。
税金はその流れの中心といってもよいでしょう。
それが一カ所に集まらなければ力が分散します。
そうすることで、戦国大名を輩出した国の力を削ぎました。
結果としてそのような地域からは幕末に破壊的なエネルギーが集うことはありませんでした。
薩摩・大隅の島津家。
周防・長門の毛利家。
肥前の鍋島家。
土佐の郷士団。
この4つの明治維新のグループは家康の政策とは関係ありませんでした。
すべて家康の統治以前からその土地を所有しており、独特な地域性を保持しました。
再び豊後国(大分県)の話
さて、その分割統治政策が今に残る姿を紹介します。
例えば、大分県は10以上の分割統治が進んだ地域です。
県民性の本を読むと、隣町と同郷意識がないなど書かれていることがあります。
これは徳川家康の考えた豊後を一つにさせないという方針の名残でしょうか。
一方で、大分の町並みの美しさは言葉に表せません。
杵築・日出・佐伯・臼杵・竹田・日田。
歩くたびにその風情や落ち着きに日本の素晴らしさを感じます。
特に杵築の町は格別にそう思える素敵な空間がありました。
筑前国(福岡県北部の話)の話
逆の例を出します。
福岡県西北部筑前国は黒田藩1つでした。
流通や経済は福岡市・天神・博多エリアを目指します。
江戸260年、ずっとそこを目指していたでしょう。
(博多は天領)
なので、大都会「福岡市」ができあがる素地があったのだと思います。
一カ所に経済・流通などが集中します。
成長のスピードと共に、新しい建物が立ち並びます。
そうすると古い建物などは壊されます。
また、明治以降は工場なども都市部に集中しました。
その結果、空襲等で町並みが壊されるということもありました。
一方で経済・流通が分散された場合は経済の発展は遅れます。
奈良などの場合は奈良県下の物が奈良市内に集まらない状態です。
その一方で、大都市のように建設を繰り返すことがありません。
なので、建物は残っていきます。
明治以降にも大規模な工場が建設されませんでした。
結果として空襲から逃れることができています。
日本の地域社会はこの2つの対極の上に存在しています。
福岡と大分。
隣でありながらも統治方法に違いがありました。
歴史の中で、できあがってきた事実・現実があります。
家康の考えた地域の統治方法は結果として町並みを今の日本人に残しました。