地域活性局

藤丸正明

秀吉は刀狩と兵農分離で社会を安定へ導いた


2014-05-09 18.42.34

真田丸の一場面で、百姓から刀を取り上げるという話がありました。

会話の主は石田三成と大谷吉継です。

豊臣秀吉は全国を平定するにあたって、画期的な政策を打ち出します。

その政策は社会の安定を築いていきます。

その安定になった政策とは、刀狩と兵農分離です。

 

こんな逸話があります。

秀吉は織田信長亡き後、山崎の合戦で明智光秀を破ります。

その後、信長の後継者レースとして織田家筆頭家老の柴田勝家と戦います。

柴田勝家の領地は北陸の福井・石川・富山です。

秀吉の領地はざっと岡山・兵庫・鳥取・大阪・京都・奈良・滋賀です。

両雄は滋賀県北部の余呉湖周辺で戦います。

結果は秀吉が勝利します。

柴田軍は福井市に向けて敗走します。

柴田家には高名な猛将佐久間盛政がいました。

彼は賤ヶ岳の戦いで主導的な役割を担いましたが結果敗北しました。

彼は敗走途中に、福井県に入ったところで12名の農民に捕まります。

殺されそうになったところを自ら名乗り、捕縛されることを望みます。

農民たちは秀吉に盛政を差し出す事で恩賞を求めます。

それに対して、秀吉は激怒して、12名の農民を全員打ち首にしました。

理由は、農民が殺そうとした佐久間はこの農民たちの主人だからでした。

 

秀吉はこの戦いで信長の後継者としての地位を確固たるものにします。

 

しかし、まだまだ難敵はいっぱいいました。

それでも結局は、秀吉が天下を統一します。

その理由は社会を鎮める政策を打って安定させていったからでしょう。

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戦国時代、農民は戦時には武装して戦争に参加していました。

農民は農繁期は農業を行い、農閑期には出稼ぎに戦争に出掛けます。

戦争で敗者の方には略奪や婦女暴行などが必ず起こります。

それは副業として農家の取り分ということになっていたようです。

戦国大名もそれに合わせて、農閑期に戦争をします。

上杉謙信・武田信玄・徳川家康などはそういった事情の中の人物です。

 

織田信長は違います。

信長は貨幣経済というものを良く知っていました。

一説によると、それは信長の祖父の妻が貿易港津島の豪商の娘だからといわれています。

信長の祖父・父の代には干拓事業を進め、農業収入を格段に上げました。

その上で、織田家は貨幣による雇用として家来を作っていきます。

織田家の家来は365日、戦闘要員なんですね。

その他の大名の多くは農民の事情に合わせないといけません。

それから、信長は城下町を作ります。

そこには貨幣で養われた家来が居住します。

もうそこには一定のまとまった消耗品の需要があるんですね。

そこに商人が集まってきます。

城下は賑わいます。

ちなみに農村には代官を派遣して治めていたそうです。

ここでもう一つ重要なことがあります。

それは家来は城下町に住んでいるため、すぐに習合して戦争に向うことができます。

なので、信長は2時間ぐらいで出発することも珍しくありませんでした。

他の大名はそうではなく、農村に動員を掛けなければなりません。

5日はかかるでしょう。ここでも差が付くんですね。

そして、信長は征服した土地ではまた貨幣による雇用を行います。

そうすると、それまで農閑期は戦争に行っていた農民は副業がなくなります。

そんな農民は近在で行われる戦争の敗者の方へ落ち武者狩りを行います。

落ち武者狩りとは、戦争に負けた側で落ち延びようとしている武者を捕まえ、殺します。

名前のある武者の首などは多額の褒美が出ることもありました。

秀吉はこれを禁止しようとしました。

その為に、農民から刀を差しださせ、非武装にしようとしました。

農村には農家だけではなく、国人と呼ばれる支配層がいました。

国人とはその地域を直接治めている人間です。

その国人は戦国武将の家来となっています。

例えば、徳川家康の場合、家康の家来の本多忠勝がいます。

忠勝が家康から拝領した領地には、その領地を管理している国人がいます。

本多忠勝は家康から動員令を受けると国人に通達して人を集めます。

この場合、大きな落とし穴があります。

戦況が不利な場合、国人や農民はそもそも動員令に従わないんですね。

負けそうな方にはついていきたくないですよね。

そして農繁期にも急な動員にはなかなか従いませんでした。

当時は農民も非常に荒々しかったと言われています。

信長政権を引き継いだ秀吉はその国人層とその下にいる農民を完全に非武装にしました。

そこで考えたことが大仏やお寺の改修を名目にして刀を取り上げることでした。

刀狩をして非武装化した上で、兵農分離を成し遂げました。

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この結果、武士たちには地域性がなくなっていったと言われています。

かつて最強と謳われた徳川家康の家来「三河武士団」。

彼らも大坂の陣では条件もあるものの死にもの狂いの浪人衆に歯が立ちませんでした。

三河武士団が強かったのは小牧長久手の戦いまでですね。

他の大名も兵農分離をしてしまっているので同じでしょう。

戦国時代とは外国から新しい技術が多く入ってきました。

その結果、鉄の大量生産が可能になります。

鉄の大量生産は当初は農機具の方に向い、農業生産量を上げます。

その上で、鉄砲や刀なども簡単に手に入るようになります。

その結果、多くの権力者が生まれます。それが戦国大名ですね。

その戦国大名の中でも、効率化を進めて敵を征服していく大名が生まれます。

それが織田信長であり、後継者の秀吉でもあります。

秀吉は天下を統一します。

それを支えたのは、石田三成であり大谷吉継や他の奉行衆です。

その実務者メンバーは社会に多くの変革をもたらしました。

中でも刀狩と兵農分離は非常に時代を平和に安定させることができました。

その安定の上に天下を取ったのが後の徳川家康です。

豊臣政権の目玉政策「刀狩と兵農分離」について書きました。

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