本多忠勝の戦国最強を物語る5つの逸話

井伊直虎 歴史
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本多忠勝。真田丸でも本多忠勝は勇猛果敢な武将として描かれていました。

徳川家康の重要な合戦で何度も活躍した人物です。

本多忠勝の娘、いね(小松殿)は忠勝譲りの力強い女性として真田丸にも出てきました。

真田丸・おんな城主直虎に登場の本多忠勝とその逸話を紹介します。

 

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本多忠勝の初陣はなんと13歳!

本多忠勝は13歳で初陣(初めての戦い)しています。

14歳で桶狭間の戦いを経験します。

桶狭間の戦いとは織田信長と今川義元の戦いです。

東海道チャンピオンシップ決勝とでもいうのでしょうか。

東海道の覇権をめぐって両者が対決します。

愛知県西部を領有する織田信長。

静岡県と愛知県東部を領有する今川義元。

その義元の傘下に徳川家康(松平元康)がいました。

桶狭間の戦いにおいて、家康のミッションは大高城に兵糧を運ぶことでした。

大高城は、織田家と今川家の最前線でした。

本多忠勝はその兵糧運び込み作戦において初めて敵の首を取りました。

 

本多忠勝の娘いね(小松殿)

1573年、織田信長が足利義昭を追放した年に、忠勝には娘が生まれます。

後の真田信幸の妻、いね(小松殿)の誕生です。

いね(小松殿)は本多忠勝の長女なんですね。

本多忠勝の息子、忠政・忠朝は共に大阪の陣で活躍します。

しかし、真田丸での扱いで「本多忠勝の娘、いね(小松殿)」には勝てないでしょう・・・。

いね(小松殿)は真田信繁の兄、信幸の妻となります。

小松殿には関ヶ原の戦いに関する逸話があるのでまた紹介します。

本多忠勝は57回の戦に出陣し無傷の最強の武将だった

本多忠勝は、大河ドラマ真田丸・おんな城主直虎では剛勇の士のように描かれています。

そして、終生、57回を数える合戦に出て、かすり傷も追わなかったと言われています。

しかし、彼は合戦において全く粗暴なところがありませんでした。

彼の合戦における勘の鋭さを家康はとても大事にします。

本多忠勝の逸話・・・合戦における勘が鋭かった本多忠勝の逸話

私が本多忠勝が凄まじいと思える二つの逸話を記憶しています。

武田信玄との前哨戦での退却戦。

徳川家康最大のピンチは武田信玄との戦いのあった頃でしょう。

一言坂の戦いがあります。

本多忠勝は家康本体に合流すべく急いでいました。

それに対して、武田軍は後ろから追いかける形で戦いになりました。

恐怖の武田軍の来襲で徳川軍は混乱に陥りました。

徐々に包囲を進める武田軍。

その際に忠勝は敵中の一カ所に隙を見つけ突撃をすることで突破することができました。

無事に徳川軍は撤退したようです。

本多忠勝の逸話・・・小牧長久手の戦いで豊臣秀吉に立ち向かった逸話

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本多忠勝の代表的な逸話はもう一つ、小牧長久手の戦いの時の逸話です。

小牧長久手の戦いのクライマックスは長久手の戦いです。

秀吉と家康の戦いは智将同士の戦いであり、お互いが陣地要塞を作って始まりました。

そして膠着状態になります。

不利なのは寄せ集めの秀吉軍です。

秀吉はまだ信長の後継者として地位を確立していませんでした。

山崎の戦いにて明智光秀を、賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家を打ち破ります。

しかし、従っている仲間は元同僚なんですね。

なので、厳密には統制が取れていませんでした。

ここに池田恒興という人物が出てきます。

彼は信長の乳母兄弟になります。

秀吉とは草履取り上がりではないかと、軽蔑していたでしょう。

その恒興が中入りという戦法を提案します。

織田信長が得意とした先方‘中入り’

これは信長が得意とした戦法です。

相手とにらみ合いのさなかにそっと相手の心臓部に突撃する方法です。

桶狭間の戦いなどが著名です。

しかし、こんな戦法は中国にもないらしいですね。

信長の独創なんでしょうか。

秀吉と家康がにらみ合いをしている最中に、秀吉の部隊が突然、三河に攻め込むという作戦です。

秀吉は拒否したかったでしょう。

しかし、恒興はしまいにはこの計画を採用されるまで、ここを動かないと言いました。

そして、秀吉はしぶしぶその作戦を決行することにしました。

そして生まれた奇襲部隊はなんと2万人を超します・・・。

2万人で奇襲できるわけがないですね。秀吉の兵力の3分の1から4分の1はいたでしょう。

羽柴秀次・堀秀政・池田恒興・森長可が出陣します。

家康はすぐにそれに気付きます。

しかし、家康側の兵隊は2万程度だったでしょう。

その大部分、9300ほどの兵隊を連れて密かに小牧山を出て恒興の奇襲部隊を追いかけます。

そして、長久手の戦いが起こります。

結果は奇襲部隊が奇襲されるという滑稽な戦いになり家康側が圧勝します。

秀吉の本軍は約8万人から奇襲部隊が消えて6万人あまりです。

家康の小牧山の本陣は1万人しか留守部隊がいません。

そして秀吉は家康がいない事を察知したようです。

そして6万のうちの大部分を率いて家康軍を追いかけました。

そこに本多忠勝が登場します。

彼は500の手勢を率いて秀吉の6万の大軍にすり寄ります。

忠勝は家康が戦いを終えて戻るまでの時間稼ぎを考えました。

忠勝は部下の全員を馬に乗せたそうです。

そして馬を降りては鉄砲を撃ちかけることを繰り返します。

秀吉にとっては煙たい存在ですね。

そうして、時間稼ぎをしながら、忠勝は家康の本軍に合流します

そして家康にすぐに小牧山に戻るべく進言し、家康は小牧山に戻りました。

秀吉は家康が小牧山に戻ったことを聞いてがっかりしたそうです。

戦は元の陣地要塞戦に戻りました。

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本多忠勝は合戦師として、読みが深く、一度も後れを取らなかったと言われています。

 

本多忠勝の逸話・・・晩年に自分の寿命を当てた本多忠勝の逸話

彼は晩年に小刀で自分の手を誤って傷つけ、死期を悟りました。

世の中には妙にいうことが当たる人がたまにいますね。

忠勝は家康にとっては戦争時の大事な預言者のような役割だったのかもしれません。

私の印象ですが、忠勝は粗暴な感じではなく、かなり繊細で計算力の高い人物だったでしょう。

そんな忠勝は三河武士団の中でも突出して知名度の高い武将でした。

家康の家臣というのは自分の功を誇ったりしないので、知名度が低いんですね。

しかし、忠勝は、後に秀吉に東の本多忠勝、西の立花宗茂と絶賛されています。

その一方で政治的な話はほとんど出てきません。

彼は自分が政治の世界には関与しないと決めていたのかなと思います。

 

 

最期に本多忠勝の子孫の逸話・・・フランス水兵をセーヌ川に叩きこむ

本多忠勝の子孫に面白い逸話があると作家の司馬遼太郎さんが書いていました。

なんでもフランスパリで、フランス水兵と戦い、片っ端からセーヌ川に叩きこんだそうです。

その子孫の名前がやはり本多忠勝だったとか。

他に確かめようのない逸話なので、本当かわかりません。

しかし、本多忠勝の子孫は海外でも最強だったという逸話として面白いですね。

 

家康の功業を支えた本多忠勝について逸話を交えて紹介しました。

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