地域活性局

藤丸正明

真田丸の宇喜多秀家について

備前中納言宇喜多秀家。

謀略にまみれた父が一世代で築いた所領を受け継ぎます。

彼は1582年の本能寺の変時、わずか9歳でした。

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そして秀吉の天下統一に合わせて備前57万石の大大名になりました。

57万石といえば、当時は6番目ぐらいの所領の大きさです。

秀家の奥さんは前田利家の娘で、かの有名な豪姫です。

官位も中納言となり、名実ともに秀吉政権の中枢となります。

岡山城を築いたのも秀家です。

大坂城を参考にしたと言われています。

豊臣期の大阪城天守閣は黒と金のデザインですね。

岡山城は黒基調に漆喰で白を取り入れています。

秀家はお坊ちゃまらしく、おしゃれだったのでしょう。

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秀吉の晩年には五大老の一人にも選ばれました。

当時、京都大阪に近い土地が重要視された時代でした。

そんな時代に大阪から目と鼻の先にある岡山にいます。

秀吉の彼への信頼はここにも表れています。

秀家は親の直家とは性格が違っていたそうです。

直家は正直者であり、純粋だったと言われています。

そしてかなりのイケメンだったそうです。

直家もイケメンだったそうなので、人相は受け継いだのでしょう。

そして秀吉の養子となり、後に猶子となります。

猶子とは猶、子供のごとしという意味です。

秀吉の養子はたくさんいました。

信長の四男の秀勝

寧々の甥の小早川秀秋

徳川家康の次男の結城秀康

などそうそうたるメンバーです。

しかし、この秀家がもっとも幸せだったのではないかと思います。

一つには彼は父が残した莫大な領地を相続しています。

他の養子と違って、外の家に出されなくてもよかったんですね。

そして、ここにまた秀吉らしいエピソードがあります。

秀吉は秀家の母で未亡人のお福に手を出します。

自分の女にしてしまうんですね。

秀吉が秀家を寵愛した理由がそこにもありました。

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さて、秀家は秀吉死後、暴走する家康を敵視します。

その一方で、彼の家臣団も秀吉の圧力がなくなったため、公然と徒党を組んで争いを始めます。

そしてその結果、日蓮宗だった重臣の大半が宇喜多家を去ります。
宇喜多家にとっては非常な戦力ダウンだったでしょう。

やはり豊臣政権下が彼には絶対でした。

そして毛利輝元と共に石田三成の挙兵に応じました。

そして関ヶ原を迎えます。

彼は26歳でした。

宇喜多勢は15700。

西軍最大の野戦軍でした。

宮本武蔵もそこにはいたといわれています。

彼は西軍の副将として獅子奮迅の働きをします。

宇喜多の正面は猛将福島正則でした。

その福島正則が何度も押されるほどの戦いぶりでした。

午前中はほぼ西軍の優勢でした。

しかし、同じ養子の小早川秀秋の裏切りに合います。

そして西軍は総崩れを起こしました。

秀家は激怒したと言われています。

その後、関ヶ原を落ち延びました。

彼は鹿児島の島津に匿われていました。

しかし、見つからない秀家への詮議が厳しくなる中で家康に出頭します。

家康は秀家に大きな政治性などは感じなかったようです。

彼は久能山に幽閉後に八丈島に流されます。

その後、84歳まで生きました。

関ヶ原に出陣した誰よりも長生きします。

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八丈島での生活は奥さんの豪姫の実家の前田家の援助がありました。

八丈島を福島正則の藩の酒を載せた船が通ったという逸話があります。

秀家はその船を呼び止め、自分のかつてのことを話した後に、お酒を分けてもらったそうです。

また、秀吉死後に秀家の元から独立していった家臣達からの援助もあったそうです。

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宇喜多秀家について書きました。

続いて、宇喜多家と大坂の陣のエピソードを少し書きます。

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