真田丸の登場人物豊臣秀次について

歴史 真田丸

豊臣秀次。

真田丸ではキリと仲の良い優しい男秀次。

奥さんは33人。殺生関白の異名などさまざまな表情を持つ秀次。

彼はどんな人物だったのでしょうか。

2016-06-07 16.14.33

何度も養子にだされる豊臣秀次

豊臣秀次は1568年 尾張の国に生まれました。

父は弥助という百姓でした。
母はともといい、後の豊臣秀吉の母の姉にあたります。

4歳の時に、秀吉が北近江攻め時に調略した宮部継潤に人質に出されます。

そしてしばらくはこの宮部継潤の養子になっています。

その後、本能寺の変まで話が進みます。

当時、四国には長曾我部元親という英雄がいました。

元親は四国を併呑していきます。

それに対して、信長を後ろ盾にしていた四国の勢力は本能寺の変の後、基盤を失います。

その圧迫されていた勢力の中に三好康長という人がいました。

三好家はかつて室町幕府管領細川家の重臣として名を馳せた徳島の名門です。

三好康長は元親の猛攻に耐えきれなくなります。

そこで豊臣秀吉を頼ります。

康長はとても政治のできる男でした。

秀吉には家柄が足りないことを知ると一計を案じます。

秀吉の親族から養子を貰い、家を譲る。

そこで秀吉に伝え、秀次を養子にもらいます。

すごいですね。

実力重視の戦国時代でも家柄は大事だったようです。

そして、三好秀次となりました。

小牧長久手の戦いでの大失態

スポンサードリンク

秀次は秀吉痛恨の戦いだった小牧長久手の戦いで失態をしてしまいます。

小牧長久手の戦いは、戦場が2つありました。

1つは小牧です。

小牧は現在の愛知県の小牧空港のある地域です。

ここで、秀吉と徳川家康は対陣します。

お互いに持久戦の形を取りますが秀吉の方が不利でした。

秀吉はこの頃、まだ織田政権の盟主に過ぎませんでした。

そこに元信長の側近中の側近池田恒興が登場します。

池田恒興は秀吉が草履取りの頃からの信長の側近でした。

その恒興が、持久戦に耐えきらなくなり、進撃を進言します。

内容はこっそり、徳川軍の本拠地である岡崎を衝くという案でした。

秀吉は恒興の話を断ることができずに作戦を練ってしまいました。

秀吉の作戦は、総勢2万人でこっそり小牧を抜け出して岡崎を攻撃する。

秀次を総大将に池田恒興・森長可・掘秀政の約2万の兵をあてました。

秀次を除く3名はこの当時、勇猛を謳われた武将でした。

先鋒は池田恒興6000。

二番手は森長可3000。

三番手は掘秀政3000。

そして秀次の8000。

6万とも10万とも言われる秀吉の大軍。

それに対して家康軍は1.5万~3万ぐらいだったといわれています。

そんな中で2万人がこっそり移動できるはずがないんですね。

すぐに家康側は見つけ、大胆な作戦に出ます。

本営から9300人を引き抜いて自らが2万人を率いて追跡します。

そして長久手という場所で戦闘になります。

その家康軍が真っ先に突撃したのが秀次軍でした。

人を驚かそうとしている人が人に驚かされる。

そう考えると、この戦いは滑稽な話ですね。

秀次軍は瞬時に壊滅します。

その後、家康軍は池田恒興・森長可を打ち取ります。

2万人の兵隊は9,300人の家康軍にほぼ壊滅させられました。

秀次は掘秀政に助けられて何とか戦場を脱出しました。

この時、秀次の一番家老だった田中吉政は家老を辞め、浪人しました。

秀次はこの後、秀吉からひどく叱責を受けました。

そして、今後は家老たちにすべてを任せることを誓わされました。

その後は、四国攻めや小田原平定などは無難にこなしました。

家老がすべて任されていたのでしょう。

豊臣秀次の側近木村重茲

この頃、木村重滋という武将が秀次付になります。

この人物は秀吉に管理された秀次の心境を変えたと言われています。

木村重玆は秀吉の側近でしたが、石田三成などとの争いに負けたようです。

そして、秀次の付家老になりました。

2016-06-09 14.10.45

※NHKホームページ参照

秀次の転機は秀吉に子供ができた時ですね。

まずは捨松が生まれます。捨松はすぐに亡くなります。

そして、その後、正式に秀次が秀吉の後継者に任命されます。

また、政務も徐々に秀吉から受け継ぎ、関白にまで就任します。

秀吉はそれに伴って太閤という称号で呼ばれるようになりました。

そんな秀次には次期後継者として絢爛豪華な未来が見えていました。

豊臣秀次の妻はなんと33人もいた

多くの大名は先を争って秀次に取り入ろうとします。

そして、秀次が女好きなのを知って、多くの大名が自分の娘を差し出します。

奥さんは33人にものぼりました。

秀次の絶頂期です。

スポンサードリンク

そんな時期に秀吉の後継者の秀頼が生まれるんですね・・・。

秀次の地位は完全に浮きはじめます。

 

豊臣秀次の晩年

秀吉は晩年に差し掛かっていました。

秀次は当時、京都にあった聚楽第にいます。

そして秀頼は大阪城にいます。

秀吉は伏見城います。

諸大名はこの状況に困惑したでしょう。

秀吉に冷遇されていた大名もいました。

かれらは秀次の元に集まっていたようですね。

秀吉は実子の秀頼に家を継がせたいと思い始めます。

秀次は33人も奥さんがいて、息子もいました。

そこから、秀吉との関係がギクシャクしていきます。

結果、秀次には謀反の疑いが持ち上がります。

そして、28歳にして高野山で切腹させられました。

豊臣家には秀吉以外に成人した男がいなくなります。

秀次は秀吉に振り回されるようにしてその短い半生を終えました。

今の時代もそんなことありそうですね。

ワンマン社長の後継者は言いなりイエスマン。

そしてそのイエスマンぶりを嫌われて辞めさせられる。

または、他の後継者を連れてこられる。

秀次には同情せざるを得ない場面もあるなぁと思いました。

以上、豊臣秀次について書きました。

スポンサードリンク

メールマガジン「奈良・ならまちニュースレター」発行しています
有料メールマガジン「地域活性化のヒント」発行しています

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。