司馬遼太郎さんの著書の中に「豊臣家の人々」と言う本があります。
ここでは豊臣家の親族となる人が取り上げられています。
豊臣秀次・小早川秀秋・宇喜多秀家・豊臣秀長・結城秀康・八条宮智仁親王。
このうち、秀吉と血がつながっているのは弟の秀長だけです。
他は養子として集められた人物です。
真田丸でも豊臣秀長・豊臣秀次・宇喜多秀家が登場します。
真田丸では秀次の扱いが大きいですね。秀長はちょっと陰にいるというか。
今後の進行上、秀吉の迷走に伴う秀次の迷走を真田丸では描いて行くのでしょうか。
秀吉は非常に親類が少ないですね。
徳川家康を見ると、数えきれないぐらいの親類が脇を固めています。
秀吉は百姓の出身なので、秀吉を支える人間がいないんですね。
弟の秀長はその中でも奇跡的にできの良い人物でした。
しかし、秀長は小田原平定後、52歳で世を去ります。
豊臣秀次は秀吉の母の姉の子供です。
秀吉は当初、この秀次を後継者にしていました。
秀吉の後継者の方針がころころ変わるんですね。
秀次の人生を見てみると、秀吉の心変わりの度に従順だったと思います。
最後は秀吉の実子秀頼が生まれるに伴い、謀反の疑いをかけられて切腹します。
秀吉は42歳まで、信長の忠実な部下でした。
1582年、信長がなくなります。
秀次は13歳でした。
急激に事業を拡大します。
1590年に北条氏を下し天下統一します。
たった8年での達成です。
秀次21歳です。
それから7年後に秀次は三条河原で秀吉から殺されます。
秀次の人生を見ると同情するべき点が多いですね。
彼は秀吉から飼い殺しのような立場にされていました。
そんな彼に自立的精神を与えたのは木村重滋だったと言われています。
秀吉の官僚群の中から天下りというか政争に敗れたようにして秀次付きになった人物です。
彼は彼なりに秀次を一人前にすることによって自分の道を切り開こうとします。
そして意志を前面に出すようにアドバイスしたのでしょうか。
その結果、彼は飼い殺しの中で、矯激な面を出してしまいます。
秀次は秀吉から政務を引き継いだ頃から、夜な夜な京都の街に出て、辻斬りをしていたという話が残っています。
秀次は自分では勇猛な人間だと思っていたそうです。
そんな勇猛な自分を33人もいた奥さんたちに見せるために、奥さんの前でも人を斬って見せていたそうです。
この話が殺生関白と呼ばれる所以だった話です。
それが結局は子供の生まれた秀吉から見ると、謀反のように見えたのでしょう。
真田丸の豊臣秀次は力のない、何かおびえたような印象があります。
小田原平定の5年後、秀次は世を去ります。
秀次の死は豊臣政権を決定的に弱体化させたでしょう。
しかし、秀次が生きていたとしても、秀頼という存在がいる以上、早晩、争いが行われたかもしれません。
そして、それは同時に豊臣家から成人男性がいなくなったことを意味しました。
その後、関ケ原の戦い、大坂の陣が起こり豊臣家は滅びます。
真田丸では今後、どんな展開になるのでしょうか。
豊臣秀次の死と豊臣政権の終幕を紹介しました。