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真田信繁と宇喜多秀家の大坂の陣

歴史 真田丸

 

2014-08-27 12.46.44

1614年。大阪の陣が起こります。
大坂の陣には、豊臣恩顧の人間が多く豊臣方に駆け付けています。
太閤殿下と過ごした大阪が忘れられない人も多かったのでしょう。
真田信繁を見ていると、どうもその懐かしさが多分にあったのだろうと思います。

しかし、地位や身分のある人のほとんどは駆けつけませんでした。
地位のある人は保身もあり、家康に追従するんですね。
それが社会の力学でしょうか。

真田信繁と宇喜多秀家の大坂の陣を紹介します。

大坂の陣には豊臣秀吉の養子・猶子は全員不参加だった

大坂の陣。
大坂に駆け付けた中には、秀吉の養子は一人もいませんでした。

秀吉の最初の養子信長の四男秀勝は早めに病死します。
小早川秀秋は関ヶ原の後に悩乱して死去します。
結城秀康は1607年に病没してしまいます。
そして、関ヶ原の戦いに負けた宇喜多秀家は八丈島に流されていました。

秀家には情報がなかったでしょう。
その時、ちょうど40歳。
秀家は大阪に行きたかっただろうなと思います。

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秀家が入場していれば、秀家が総大将だった可能性が高いですね。
そうすれば、真田信繁や後藤又兵衛などが苦労せずに済んだでしょう。

大坂の陣は事実上、茶々(淀君)が仕切っていたお城になります。
そして茶々(淀君)は身内や親族で固めようとしました。

織田信長の次男の信雄という人物がいます。
彼は信長の息子の中でも最も無能だと言われていました。
茶々(淀君)は当初、この信雄を総大将にしようとします。
それに対して、信雄は景気の良いことを言っておいて風雨の夜に逐電します。

茶々(淀君)から見ると信雄は従兄弟になります。
そして先の内大臣だったので、家康と同じ官位だったと言えます。
そんなことでかれを総大将にしようとしました。

行うことは明確な戦争行為にも関わらず、官位などで決めようとします。
良くないですね・・・。

宇喜多秀家の家臣が大坂の陣へ参陣

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宇喜多秀家の家臣では明石全登という人物が大阪に入場します。
彼は元家老で、クリスチャンでした。

明石全登は真田信繁と共に浪人出身の五人衆の一人に選ばれます。
彼もまた、大坂の陣で活躍します。
豊臣方が勝った暁には国内でクリスチャンを認めるとお墨付きをもらっていました。
こうやって秀吉の周囲の人物を眺めると時代の名残を感じます。

 

宇喜多秀家は家臣を統率できなかった

私は小さい頃から宇喜多秀家がとても好きでした。
純粋に人に尽くす姿に好感を持っていました。

しかし、彼は育ちが良すぎました。
謀将宇喜多直家の薫陶した家臣を統率できなかったと言われています。
また、家臣による宗教対決もありました。

岡山は日蓮宗の盛んな地域です。
その一方で、流行りのクリスチャンの台頭がありました。
それが二派に分かれて争います。

直家と秀家では制御できる器量が違うんですね。
秀家とは秀吉の魔術によって出来上がった楼閣だと思います。
秀吉が亡くなった後に、秀家もあっけなく大名の地位から転落します。

その分、秀家は秀吉が大好きだったでしょう。

戦国時代のクライマックス大坂の陣を彩った真田信繁

そして大坂の陣は戦国時代の終焉を意味しています。
時代の最後のクライマックス大坂の陣を彩ったのは真田信繁でした。

秀吉が好きだったという意味では真田信繁もまたそうだったでしょう。
人の運命とはわからないものですね。

秀吉が一番かわいがったと言ってもいい秀家は先に関ケ原で敗退してしまう。
最後まで秀頼のそばに秀家はいたかったのではないかと思います。

2014-08-27 12.46.29

3回にわたって、宇喜多家について書きました。

 

宇喜多秀家の父、宇喜多直家の生涯と家臣・病気と死因について

宇喜多直家の逸話・生涯と家臣や病気と死因について

宇喜多秀家と豪姫の関ケ原・大坂の陣の逸話など

宇喜多秀家と豪姫の関ケ原と大坂の陣の逸話などを紹介します

 

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