大河ドラマ真田丸でも一際強そうな顔をしていた加藤清正。
加藤清正はその死因を巡って今も議論が絶えない人物です。
加藤清正の熊本城や子孫・死因・関ケ原・朝鮮出兵について紹介します。
加藤清正は熊本城や名古屋城で名前を挙げた築城家
加藤清正の母は豊臣秀吉の母と親戚だった関係で地位を築きます。
加藤清正は武断派の印象が強いですが、執政者としての実績も多い人物です。
しかし、加藤清正の最も有名な治績は熊本城の築城と名古屋城の石垣普請でしょう。
加藤清正が作った熊本城の石垣の部分はこのほど起きた熊本震災でも壊れなかったそうです。
加藤清正の朝鮮出兵の逸話
加藤清正は石田三成が主流派になる過程で徐々に政権中枢から外れていきます。
そして加藤清正が恩師である秀吉と永遠の別れになったのは朝鮮出兵でした。
加藤清正は朝鮮出兵において、勇敢に戦いを行い活躍します。
しかし、裏で和平を目指す石田三成による秀吉への讒言がありました。
その結果、加藤清正は朝鮮出兵の陣営から外され蟄居を命じられました。
加藤清正の逸話・・・関ケ原の戦いの逸話
加藤清正は朝鮮出兵から帰国後、親友と福島正則や加藤嘉明と共に徳川家康に靡きます。
しかし、その家康にも勘気を被っています。
九州では朝鮮出兵において大名たちが疲弊していました。
そんな中、鹿児島の島津氏では2度も事件が起こります。
そのうちの1つの事件を加藤清正が応援した疑いがありました。
豊臣政権の大老である家康はその件を扱っており、激怒します。
その結果、謹慎する羽目に陥りました。
加藤清正は関ケ原の戦いにおいては、九州での戦役において活躍します。
九州では東軍に味方したのは加藤清正と黒田官兵衛だけでした。
二人は力を合わせて、九州の西軍を平らげていきます。
その結果、加藤清正は関ヶ原の戦いには参戦していませんが、莫大な恩賞を手に入れます。
それが肥後の大部分の支配になりました。
加藤清正は当時大人気の武将だった
清正は頑固な面もあり、このように人間関係で失敗している面もあります。
しかし、この当時、庶民には圧倒的な人気のある人物でした。
彼は身長が190cmを越えていたそうです。
そしてさらに大きな帽子をかぶって戦争に臨んでいました。
なので2mを超える印象があったのでしょう。
大男ですね。
後に江戸時代に江戸の町でも清正の一行が通る時には多くの見物人が出たそうです。
加藤清正の死因の逸話
清正は豊臣家と心中するように死去します。
大坂の陣の1611年、秀吉の子秀頼と家康の会見を実現させるために行動しています。
それを見届けた後に清正は亡くなりました。
清正は秀吉のことを忘れていなかったのでしょう。
その一方で、自分の前途は容易ではないとも思っていたでしょう。
そんな加藤清正を面白く思っていなかったのは徳川家康の側近たちでした。
二条城で豊臣秀頼と徳川家康が会談したすぐ後に亡くなります。
加藤清正の死因は当時から毒殺ではないかといわれていました。
加藤清正が二条城で食べた饅頭に毒が入っていたことが死因とさえ言われています。
実際に二条城からの帰国の途において、船中で顔が膨れ上がったそうです。
加藤清正の子孫
加藤清正の子孫は大名としては残れませんでした。
加藤清正の子、清忠は乱心ということで改易されます。
そこで加藤家断絶というところで救いの舟を出した人がいました。
柳川藩主立花宗茂です。
彼は西軍として関ヶ原の戦いにおいて加藤清正と戦いました。
その後、家は断絶しますが、加藤清正がその家臣たちを引き取りました。
その後、立花宗茂は奇跡的に大名に復活します。
すると、今度は加藤清正の息子が断絶に遭います。
しかし、立花宗茂はかつての恩を忘れませんでした。
加藤清正の子孫は実は立花家に引き取られます。
そして、立花藩士として加藤清正の子孫は生き残ります。
あまり、この話は一般には出回っていません。
しかし、加藤清正の子孫は柳川にもいました。
なぜ言い切れるかというと、私の親戚にあたるからです。
名前は加藤ではありませんが加藤清正の子孫として今に残っています。
加藤清正の子孫は清正のかつての恩返しのお陰で今に続いています。
加藤清正と熊本城・朝鮮出兵・関ケ原や死因・子孫について紹介しました。