地域活性局

藤丸正明

真田丸の加藤清正について


大河ドラマ真田丸で一際強そうな顔をしている武将がいます。

加藤清正。

豊臣秀吉の母と清正の母は親戚だった関係で地位を築きます。

彼は武断派の印象が強いですが、実際には執政者の実績が多いです。

当初は秀吉政権の事務方も勤めていました。

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三成などが主流派になる中で、徐々に政権中枢から追いやられます。

また、彼は朝鮮の役で秀吉から誤解されたまま世を去ります。

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清正は熊本に行けばヒーローです。

熊本城の築城を始め、県内に多くの治績が残っています。

秀吉の逝去後、清正は親友の福島正則と加藤嘉明と共に徳川方に付きます。

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しかし、実は清正は家康にも勘気を被っています。

九州では朝鮮出兵の先頭に立たされた大名たちが疲弊していました。

そんな中、鹿児島の島津家には2回も事件が起こります。

梅北国兼の乱と伊集院忠真の謀反。

その伊集院の乱を密かに清正が応援した疑いがありました。

当時、家康は秀吉政権の責任者としてこの事件を扱っていました。

そしてこのことを知って激怒します。

清正は謹慎します。

清正は頑固な面もあり、このように人間関係で失敗している面もあります。

しかし、この当時、庶民には圧倒的な人気のある人物でした。

彼は身長が190cmを越えていたそうです。

そしてさらに大きな帽子をかぶって戦争に臨んでいました。

なので2mを超える印象があったのでしょう。

大男ですね。

後に江戸時代に江戸の町でも清正の一行が通る時には多くの見物人が出たそうです。

清正は豊臣家と心中するように死去します。

大坂の陣の1611年、秀吉の子秀頼と家康の会見を実現させるために行動しています。

それを見届けた後に清正は亡くなりました。

清正は秀吉のことを忘れていなかったのでしょう。

その一方で、自分の前途は容易ではないとも思っていたでしょう。

秀吉の子飼いの大名の多くは徳川将軍家3代目までに改易に遭います。

徳川家は天下統一後、徐々に徳川家親族や譜代を増やします。

そして縁の薄い大名をつぶしていきました。。

そういう意味では秀吉とは別の事情を持った団体が天下を取ったといえるでしょう。

加藤清正。

真田丸では加藤清正は石田三成ほど明確は印象を持たず、

徳川家康のようなあくの強さも持ち合わせていません。

その上で、石田三成とも遺恨ができる。

彼はとても不幸だったのではないかと思います。

おそらく真田丸での加藤清正はそのような扱いになるのではないでしょうか。

真田丸の登場人物加藤清正について紹介しました。

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