地域活性局

藤丸正明

大坂の陣の敗因・豊臣方が負けるべくして負けた4つの敗因

 

真田丸では大坂の陣が最終回に向けて進んでいます。

歴史に・もし・はありません。

しかし、やはりこうすれば勝てたのではないかというロマンがあります。

NHK大河ドラマ‘真田丸’でもそのあたりが視聴率にも繋がっていくドラマだと思います。

そんな大坂の陣の豊臣方の敗因を考えてみました。

2014-08-27 12.46.29

 

1.大坂の陣の勝負は関ケ原の戦いが終わった段階でついていた。

 

当時の日本の石高(経済力)は1800万石といわれていました。

この数字をもとに調べていきます。

関ケ原の戦いで石田・大谷・宇喜多など豊臣家に絶対の忠誠を尽くす大名達が消えました。

3大名の合計は約85万石です。

ここに秀吉の妻寧々の親族木下一派が15万石相当。

これに豊臣家の直轄地200万石を加えて300万石です。

他に小西や安国寺・増田・長束等、消極的豊臣政権与党が200万石程度

徳川に距離を置く外様大名は毛利・上杉・佐竹でその党派は350万石を超えます。

関ケ原における東軍諸将の多くは家康の天下を想定していました。

細川忠興・前田利長・黒田長政・加藤嘉明・堀秀治・山内一豊・田中吉政・堀尾吉晴・池田輝政。

外様は伊達政宗・最上義光。

ここに徳川を合わせると500万石を超え、当時の国力の約4分の1の数字となります。

そして、東軍には戦歴輝かしい家康がいる一方で西軍は全軍を統率できる人物がいません。

家康は政略を進め、態度を曖昧にしていた大名に工作を進めます。

そして、関ケ原後の論功行賞では態度曖昧だった大名は容赦なく土地を没収します。

結果、関ケ原に勝利した家康に歯向かえる大名はいなくなっていました。

大坂の陣で豊臣方に加勢したのは関ケ原で所領を失った武将たちでした。

戦争には勝つ理由をもった勝利者と負けるべくして負ける敗者が存在します。

関ケ原に西軍が負けた時点で、豊臣方となる大名は皆無になったといえます。

豊臣家1家65万石で約1700万石の徳川政権と戦うことになりました。

 

 

2.豊臣方には総大将の器量のある人物がいなかった。

 

大河ドラマ真田丸に見えるように、豊臣方は団結力に問題があります。

豊臣方は二つのグループに分かれていました。

秀吉の天才的な軍略のお陰でほぼ無傷で殿中勤めだった豊臣直臣団。

関ケ原で敗残を味わった大坂五人衆を代表とする浪人衆です。

この二つのグループは最後まで団結することができませんでした。

一方で、徳川方には家康の存在もあり、譜代・外様ともに特に目立つ亀裂はありませんでした。

豊臣方は石田三成や宇喜多秀家など豊臣家ゆかりの実力者が居れば状況は変わったかもしれません。

または加藤清正・福島正則などが入城できれば、歴史よりも健闘できたかもしれません。

豊臣方には総大将に値する器量の人物がいませんでした。

 

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3.淀君の意思が作戦に齟齬をきたし、豊臣方の戦意を何度もくじいた。

 

大坂の陣では大坂を実質切り盛りしている女性「淀君」の存在がありました。

大坂城は1万人の女中がいたそうで、女性の城とも呼ばれていたようです。

大坂冬の陣における作戦は籠城でした。

しかし籠城は大坂城外に豊臣方に味方がいない以上、いつかジリ貧になります。

しかし、家康はそのうち死ぬのではないかという期待が豊臣方にはありました。

開戦時、71歳の家康。2年後の1616年には死去しています。 

そういう方針や戦略がある以上、冬の陣では籠城を徹底するべきでした。

家康は淀君に大砲で圧力をかけ、淀君は錯乱するほどに恐怖を覚えます。

淀君は小谷城・北ノ庄城の落城経験があります。

その恐怖心はトラウマを超えていたでしょう。

家康はそれを巧みに利用して戦局を有利に進めています。

 

大坂夏の陣最後の天王寺の戦いにおいても、家康は用意周到な策を使います。

この日、豊臣方は決死の覚悟でしたが、家康は和議の使者を送り揺さぶります。

淀君はその和議にすがろうとします。

そして決死の覚悟に和議によるわずかな生存の可能性が見え、豊臣方は動揺します。

このため、四天王寺口出馬していた秀頼が大坂城に引き返すことになりました。

動揺の色が見えると家康はすかさず攻撃を開始します。

家康は終始このように謀略・策略ばかりを使って豊臣方を追い詰めました。

淀君の経験では、好々爺を演出する老獪な家康が見抜けませんした。

 

大坂の陣 冬の陣に勝つために豊臣方がやるべきだった3つのこと

4.情報がダダ漏れだった豊臣方

 

大坂には裏切者が多く存在していました。

織田有楽斎や伊東長次をはじめ、淀君の周囲にも間諜が居ました。

さらには秀頼の2名の祐筆も家康の内通者でした。

秀頼の正室千姫も徳川秀忠の娘なので、千姫の側近団などは徳川方ですね。

このように大坂の陣には豊臣方の敗因が数えきれないぐらいありました。

家康は城内の情報を逐一耳に入れて謀略・策略の限りを尽くしました。
大坂の陣とは、家康の天下統一構想参加グループと参加しなかった人物達の最後の戦いでした。

そんな中、真田幸村は大活躍します。

大坂冬の陣では真田丸で徳川方を翻弄します。

夏の陣では家康本陣を襲った突撃を2度も行いました。

大坂冬の陣で徳川家康は真田幸村に山城国で負けていた

小さい頃、私の実家の本棚に「真田十勇士」という漫画がありました。

その本では崩れゆく豊臣家の中で躍動する幸村と十勇士が勇ましく描かれていました。

 

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大坂の陣の敗因・豊臣方が負けるべくして負けた4つの敗因を紹介しました。

大坂夏の陣に豊臣方が勝つためにやるべきだった4つのこと

徳川家康の大坂冬の陣和睦交渉が偽りだった証拠があった

 

 

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