歴史とは時の権力者の思い通りに塗り替えられるといわれています。
その一方で、地域に残る伝承があります。
伝承は伝承の域を出ることはありません。
しかし、時に権力者が抹消した歴史が地域の伝承で残ることもあります。
今日はそんな伝承のする話を書きます。
真田幸村が大坂冬の陣で徳川家康に山城国で快勝していた逸話を紹介します。
真田幸村は大阪冬の陣で徳川家康に山城国で快勝していた
日本の歴史の始まりの地奈良。
そこにはかつての栄華を偲ぶ寺院が存在します。
そのお寺の立ち並ぶ一角に、徳川家康に関する歴史があります。
大坂冬の陣で徳川家康が真田幸村に追い込まれて奈良に逃げてきた。
それを今に伝えているお寺が奈良にあります。
伝承の残る寺院・・奈良市漢国町の山の寺念仏寺
奈良市漢国町。
近鉄奈良駅から西へ4分ほども歩いたところ。
そこに浄土宗・山の寺念佛寺というお寺があります。
この念仏寺の開山は袋中上人で施主は徳川家康の末弟の松平隠岐守定勝です。
今回は念仏寺さまに取材に行かせていただき、お話をお聞きしてきました。
山の寺念佛寺の由緒を看板の原文のまま紹介します。
浄土宗隆魔山念佛寺という
徳川家康公は慶長十九年(一六一四)十一月十五日
大阪冬の陣の折 木津の戦いで真田幸村軍に
破れ奈良に入り この地小字山の寺に落ち延び
桶屋の棺に隠れ九死に一生を得た
後 天下治り元和八年(一六二二)家康末弟当時
伏見城代 松平隠岐守定勝はここ油阪・漢国町を
買いうけ 袋中上人を開山として諸堂を建立した
平成十一年一月一日 第十八世 山主
NHK大河ドラマ真田丸では全く放送されなかった場面です。
徳川実記に書いてある大阪冬の陣で徳川家康が真田に襲撃を受けた記録
大坂の陣のこの前後の情景を少し。
京都二条城に着陣した家康は暫く京都に滞在します。
滞在は10月23日から11月15日です。
この間、豊臣方の真田幸村や後藤又兵衛は大坂城で出撃策を唱えてました。
今はまだ家康の周囲には大軍はいないので出撃するべきであると。
茶々が和平交渉を行っていたので、大野治長は出撃を許可しませんでした。
江戸時代の徳川家の編成した資料に徳川実紀があります。
歴代将軍の事績を紹介しています。
そこには、このように書かれているそうです。
1614年11月15日、京都を出発した家康公は木津で真田殿の襲撃を受け、奈良油坂の桶屋の桶に隠れて難を逃れた。
つまり、徳川家の記録に木津で真田の襲撃を受けたという記録があります。
この話。
真田が実際に出撃して木津の町に突入したという話はあり得るかなと思います。
ちなみに徳川実紀には真田殿と書いてあります。
真田幸村とは書いていないんですね。
真田幸村ではなく、真田の郎党だった可能性があります。
家康は木津で真田幸村に急襲されて奈良に逃げ延びたと。
ちなみに司馬遼太郎さんの城塞ではこの間の情景が軽く描かれています。
要約は以下の通りです。
徳川家康は11月15日に京都を出て夕刻に木津に入る。
しかし、要害が悪いことに心配し奈良へ走った。
一方の真田幸村は木津に家康が宿泊することを察知して夜襲を大野治長に提案。
治長はそれが魅力的な案とは思わなかった。
ことが重大なので、秀頼公に裁可がいると。
その秀頼はその日、早めに就寝しており、裁可が出ないと。
幸村は肩を落として退出し、後藤又兵衛はその報を聞くと落胆して挨拶もせずに帰陣した。
大阪や関西には家康が討ち死にした話や逃げ回った話が多く残っています。
そのたぐいのほとんどは大坂夏の陣における天王寺の戦いの話が中心です。
家康は本陣から逃げて遠く河内小阪まで逃げた話などもあります。
しかし、冬の陣にこのような話があったことはあまり知られていないですね。
徳川家康と奈良の逸話と漢国神社の御祭神の逸話
さて由緒書きに出てくる松平定勝。彼は家康の異父弟です。
彼は後に油阪・漢国町を買いうけお寺を立てたとなっています。
たしかにこの漢国町は徳川家にゆかりの場所です。
漢国町には家康の鎧を祀っている漢国神社という神社があります。
そこの御祭神は大己貴命(大国主命)です。
徳川家康の謀臣南光坊天海はこの大己貴命を江戸の中心に据えたといわれています。
神田明神の復興や日枝山王社の復興を天海は主導しています。
ちなみにこの南光坊天海。
彼は福島県出身だといわれています。(異説アリ)
それに対して、ここの開山の袋中上人もまた福島(いわき)の方です。
看板の由緒には松平定勝が漢国神社を買い取ったと書かれています。
漢国神社には徳川家康の鎧を祀っています。
さらにいえば、徳川家は代々、浄土宗を信仰しています。
そして、この念佛寺は葵の御紋の使用を松平定勝に許されています。
この地が徳川家康にゆかりがあることはほぼ間違いないでしょう。
大坂の陣のその時の情景
真田幸村は1614年10月9日前後に大坂城に入城しています。
それから11月15日まで畿内に情報網を形成していたのでしょうか。
二条城から大坂城までは53km。
仮に家康が二条城を11月15日の10時に出発したとします。
木津到着は16時ぐらいだとします。
幸村はそれを察知するために二条城前に諜報員でもおいていたのでしょうか。
53km先の大坂城の幸村まで報告しなければなりません。
大坂から木津まで34kmです。
53kmを馬が40kmで疾走したとしても1.5時間はかかるでしょう。
そして、そこから夕刻までに軍備を整えて木津を襲う・・・。
11時半に幸村が大坂城で報告を受け、騎馬隊だけで駆ければ夕刻には木津につきます。
長く二条城に滞在していた家康が急に出陣するという情報をどう察知したのか。
考えれば考えるほど、わからなくなってきます。
すでに木津に目星をつけて兵隊を隠していた可能性もあります。
しかし家康はその窮地があったとしても逃れたのが現実でもあります。
家康はやはり天下を取る運も兼ね備えていたのでしょうか。
徳川家康の伊賀越えと一光三尊
奈良と徳川家康は由来が少なからずあります。
この念佛寺の元の名前は善光寺だったそうです。
そして、家康の神君伊賀越えの関係場所には善光寺式三尊がお祀りされているそうです。
善光寺式三尊とは一光三尊といい、阿弥陀・観音・勢至菩薩を一つの光背の中にお祀りするそうです。
ここにも何か理由がありそうですね。
いずれ研究しようと思います。
今回は伝承の域にある話を紹介してみました。
真田幸村が大阪冬の陣で徳川家康に山城国で快勝していた逸話を紹介しました。